表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/107

第二幕 第一章 その1

それから幾度かの季節が過ぎた。

郷土資料館の朝は時が止まったのかの如く、今日も静かだった。

薄曇りの空から柔らかな光が差し込み、

書棚の埃が金色にきらめいている。


風祭美音は、手元の和綴じ帳を閉じて伸びをした。

目の疲れを誤魔化すように、カップのコーヒーをひと口。

砂糖たっぷりの甘さに小さく微笑み、再び資料に目を落とす。

すでに三冊目の整理だった。


「…これも半分虫喰い、かぁ」


呟いたところで、資料室のドアが軋む。

「おはよう、風祭さん」


入ってきたのは市役所の文化財課の入生田昭雄いりゅうだ あきお

五十を過ぎた万年主任だ。――もっとも、移動の少ないこの課では出世とも無縁なのだが。

少し眠そうな表情に無精ひげ。だらし無く着こなしたスーツ姿のまま、鍵束を手に美音を手招いた。


「おはようございます。どうされたんですか?」

「申し訳ないけど、少し頼みたいことがあってね」


彼は苦笑しながら資料室の奥へゆらりと歩き、古びた鉄扉の前で立ち止まった。


「この奥に、未整理の寄贈資料があるんだ。

 大半は傷みが酷くて展示できないんだが、記録としては残しておきたいらしい。

 すまんけど、書き写せるものは写しておいてくれ」


そう言って扉を開けた瞬間、

冷たい空気と埃の匂いが流れ出した。


倉庫の棚には、木箱や段ボール箱に詰められた資料らしきものが無数に積まれている。

昔の農具のようなものや、果ては甲冑まで混じっていた。

美音は目を見開き

「…ここ、これ全部ですか?」

「そう。悪いねぇ頼んだよ。期限はないからさ」


入生田は後ろ手に手を振りながら退室する。

美音は一礼し、上司が去ると白手袋をはめ、棚の奥から木箱をひとつ引き出した。


中には、和紙の束、巻物、家の記録帳のようなもの。

どれも水を吸ったように脆く、触れるだけで崩れそうだ。


「うわぁ…。でも…やることがあるのは幸せよね」


独りごちてページをめくると、

黒ずんだ墨跡の中に、掠れた文字が浮かび上がった。


『とがの少女、山よりかへる。

村人さわぎたちて  城へ早馬を出す。

あめかぜ、みっか止まず。』




「…間を、空けてる…?」


書き手は何かを省いたのではない。

書けなかったのだ――そう感じさせる妙な間。

まるでその“城”の名を筆にすること自体が、禁忌だったかのように。


朱山の古記録に“城”とつく名は少ない。

だが、美音の知る限り、この地域で“城”といえば、

言わずと知れた――あの家。


美音は眉をひそめ、ページをそっと閉じた。

「……どうして、名前を空けてまで……?」


風が紙の端をめくり、薄い埃が舞い上がる。

倉庫の奥に積まれた古い記録群が、

沈黙の中で、まるで何かを隠し通してきたように感じられた。


かろうじて読めた部分もあるが、その後は判読不能。

墨は滲み、紙は破れ、文は途切れている。


美音は眉を寄せた。

「……“とがの少女”……?」


思わず声に出してみる。

口にした途端、空気が少し冷たく感じた。


さらに下には、別の筆跡で短い追記があった。


『あけのとがありて うへさまへ申し……』



ページの端は焼け焦げており、それ以上は読めない。


美音はそっと指でなぞった。

「……城に、早馬……。それに“上様”……。本当に城なんだとしたら、どこの城?」


朱山の資料のはずなのに、“城”と呼ばれる地名や構造物は、この地域の記録にあまり残っていない。

城内地区には旧藩主の古城が復元されている。

と言っても戦後にセメントで作られた観光用の城だが――

他に古城と言えば小規模なものが数カ所、石垣だけを残している程度。

いずれも早馬で報告をするような城ではない。


やはり――

「あの家、かなぁ」


美音は以前、翔流が連れてきた長身の学生の姿を思い出す。

切れ長の目、端正な顔立ち。引き締まった体、運動部には珍しい長めの髪。

女性なら誰でも振り返るような容貌の彼。


「というか、翔流くんもだけど…あの家系、相当レベル高いのよね」

ぽそっと口をつく。


「でも、この文体は新しいわよね。紙も質がいい。古くても江戸後期、ううん幕末…。明治の始めくらいまであるのかも」


資料室の時計が、静かに音を刻んでいる。

美音は深呼吸し、ノートにその記述を書き写した。


「咎ノ少女…。何だろう、これ」


書き終えたペン先が震えていた。

ペンのお尻を唇の下に当て、考える素振りを見せながら、

胸の奥に残る微かな違和感を見つめる。


その背を、冷たい風がすり抜けた。


彼女は顔を上げ、閉ざされた倉庫の奥を見た。

そこにある膨大な記録たちが、

まるで何かを訴えているように感じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ