第九章
朱山神社の境内へ至る参道は、まるで光の海だった。
提灯が風に揺れ、金魚すくいの水面に反射して、揺らめく光が子どもたちの顔を照らしている。
香ばしいたこ焼きの匂いと、どこか懐かしい綿あめの甘い香りが混ざり合い、秋の空気の中に優しく溶けていた。
翔流と陽菜は並んで歩いていた。
陽菜は射的の景品を見上げては「わぁ、これ欲しい!」と笑い、金魚の桶を覗き込んでは顔を輝かせる。
「ねぇ、翔流くん見て! この金魚、すっごく赤い!」
「…朱色だな」
「うん、なんか懐かしい色。あったかい感じがする」
翔流は笑って頷く。
「陽菜っぽい色だな」
「え?どこが?」
「見てると、なんか心が落ち着く」
陽菜は頬を染めて、わざとそっぽを向いた。
「…もう、ずるいなぁ、翔流くんは」
「ホントのこと言っただけだよ」
彼の言葉に、陽菜の口元が小さく綻ぶ。
提灯の灯りがその横顔を照らし、まるで花のように淡く光った。
境内では舞台囃子が鳴り始め、太鼓の音が夜空に響く。
人々の笑い声、風鈴の音、屋台のざわめき――
すべてがひとつに混ざって、まるで夢の中のようだった。
「ねぇ翔流くん」
「ん?」
「今日ね、すごく楽しいよ。…ありがとう」
翔流は照れくさそうに笑って、手を頭の後ろで組んだ。
「俺もだよ。なんか、こういうの、いいよな」
「うん。ずっとこうしてたいな」
陽菜はそう言って、夜空を見上げた。
空は群青に沈み、朱山の稜線が月明かりに溶けている。
山の向こうには、まだ見ぬ花火の音がかすかに響いていた。
翔流はふと、その横顔を見つめた。
いつか忘れてしまうとしても、この瞬間だけは忘れないでほしい。
そんな思いが胸を締めつけた。
「なぁ、陽菜」
「うん?」
「花火、見に行こう」
陽菜は目を丸くして、すぐに笑った。
「うんっ!一緒に!」
手を取り合い、二人は参道を抜けてゆく。
夜風が浴衣の裾を揺らし、提灯の灯がふたりの背を照らしていた。
夜空に一輪、光が咲いた。
大輪の花火が、朱山の稜線を朱く照らす。
山裾の家々に反射した光が、まるで水面のように揺れていた。
翔流と陽菜は並んで、少し離れた草の斜面に腰を下ろしていた。
遠くで太鼓の音が響き、風が浴衣の裾を揺らす。
「前にね、花火を見たの」
陽菜がぽつりと呟いた。
「おうちの庭から、ね。あの時ね、翔流くんと一緒に見たいなぁって思ったんだ」
翔流はその言葉に小さく笑う。
「そっか。見れたな、花火」
陽菜は頷き、夜空を見上げた。
花火の光が頬に映って、朱の揺らめきがその瞳を照らす。
翔流は、彼女が“覚えていること”があったというだけで、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
忘れていく日々の中で、それでも心のどこかに自分との記憶が残っている――それだけで十分だった。
「うん。嬉しいなぁ」
陽菜が微笑む。
「ねぇ、翔流くん。わたしね――」
「うん?」
陽菜は少し俯いて、両手を胸の前で組んだ。
夜風が髪を揺らし、頬がほんのり赤い。
「えっと……あのね」
声が震える。
翔流は静かに彼女を見つめる。
「ずっと前からね、こうして一緒に居たかったの」
言葉を口にした瞬間、陽菜の顔が真っ赤に染まる。
「……あのね。わたしね――」
花火が夜空で弾けた。
その光が、ふたりの間を朱く染め上げる。
次の瞬間、突風が吹いた。
火薬の匂いとともに、遠くで提灯がひとつ、風に流されて倒れる音がした。
「陽菜!」
翔流は咄嗟に、胸の前で手を組んでいた陽菜の手を取ろうとした。
しかし、陽菜は一歩、後ろに下がる。
瞳が揺れ、周囲を見回した。
「…これ、わたし…」
翔流は首を振る。
「大丈夫だ、陽菜。大丈夫だから」
陽菜は、首を横に振った。
その表情は悲しくも決意に満ちていた。
「わたしが居たら…やっぱりダメなの」
その声は――翔流には泣いているようにも、何かの決意のようにも響いた。
「陽菜?」
陽菜は、翔流の差し出した手をそっと避けた。
そして、次の瞬間――踵を返し、参道の方へ駆け出した。
浴衣の裾が翻り、花火の光がその背を照らす。
辺りにはつむじ風が渦巻き、提灯は真横に傾くほど風に取られる。
横倒しになる屋台が重なり合い、金魚すくいの桶が割れ、零れ落ちる水とともに、流れ出た小さな朱色が地面を跳ねる。
「掴まれ!」「早く逃げるんだよ!」
たこ焼き屋のガスボンベが火を吹く。
「これが…」翔流は息を呑む
朱の咎――。だが、これくらいなら。
背後から硬く高い金属音がし、聞き慣れた声が届く。
「大丈夫だ。ここは俺に任せろ」
いつから居たのか、悠眞が背後に立っていた。
暴風に煽られ、抜き放たれた刀が夜気を裂く。
拵えからして古そうなその刀は、刃に沿って淡い燐光を帯びていた。
ただの刀ではない。見るだけで、空気が張り詰めるようだ。
「無断で借りてきた。…家に伝わる、龍を斬った刀だ」
悠眞は翔流の疑問に先回りし、小さく笑って言う。
「お前は陽菜のところへ急げ」
「だが――!」
翔流の声が掻き消えるほどの風が吹いた。
屋台が弾かれ、破片が宙に舞う。
悠眞は目を細め、風の中心を見据えた。
「ここは俺が担当できても、陽菜のところは代わりがいない。
…そうだろ?」
翔流は唇を噛み、頷いた。
「わりぃ…。」
「織江の時と同じさ」
悠眞は静かに言った。
「この“風”を断てば、あとはお前の仕事だ」
刀を構えた姿は、どこか神事のようだった。
一歩、足を踏み出すたび、砂利が爆ぜ、風が逆巻く。
その中心に"視え"るのは、形のない何か――
朱山の龍脈が吹き上げた、咎の奔流。
「…やれるさ。俺は龍城の跡継ぎだ」
その呟きと同時に、悠眞の体がわずかに光を帯びた。
次の瞬間、風を裂く閃光が走った。
「――今ッ!」
火花が散り、刀身が唸る。
風が押し返し、彼の腕が軋む。
それでも一歩も退かず、足を踏み込んだ。
「ぐっ……!」
刀は止められた。しかし――風の勢いが確かに弱まっている。
朱い光が一瞬だけ収まり、夜の空気が戻る。
悠眞は唇の端を吊り上げた。
「…行け! 早く!」
翔流はその声に振り返り、力強く頷いた。
「頼んだ!」
「任せておけ。俺にも、守りたい人はいるんだ」
翔流が駆け出すその背を見送りながら、悠眞はもう一度刀を構える。
彼の眼差しは、朱山の夜よりも深く、静かに燃えていた。
参道を駆け上がる足音が、夜の山に響いている。
人のざわめきも花火の音も、いつの間にか遠くなっていた。
ただ、風の音。そしてどこからか鳴る低い脈動だけが耳に残っているようだった。
「陽菜!…どこだ!」
翔流は息を切らしながら叫んだ。
返事はない。だが、風の向こうで、微かに彼女の声が聞こえた気がした。
――呼んでいる。
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
朱山の麓、神社の裏手にある古い石段。
幼いあの日、陽菜が倒れていたあの場所。
そこへ向かって、翔流は駆け上がった。
霧が濃くなり、提灯の明かりが霞んでいく。
空気が重い。
息をするたびに胸が締めつけられ、皮膚の下で血がざわつく。
石段を登りきった先。そう、朱山神社の奥。
古い鳥居の先に、洞窟が見えた。
あの時と同じ、真の闇をたたえて。封じていた祠、だったと思わしき残骸の真ん中――。
陽菜が、そこにいた。
浴衣の裾が風に翻り、彼女の足元には朱い光が揺らめいていた。
地面の下で何かが脈打ち、呼吸するかのように光が広がっていく。
「陽菜!」
翔流が駆け寄ると、彼女は振り返った。
その瞳には涙が滲んでいた。
「来ちゃダメだよ、翔流くん…」
「何言ってんだよ!陽菜こそ行くなって!」
陽菜は首を振る。
「わたし、わかっちゃったの。
ここに居ると、朱山が――みんなが、壊れちゃうの」
翔流はその言葉を遮るように叫んだ。
「壊れやしない!俺が守る!」
「だめ!」
陽菜の声が夜に響いた。
風が一層強くなり、祠の前の札が一枚、音を立てて剥がれ落ちる。
朱い光が漏れ出し、彼女の足元から空へと立ち昇った。
翔流はその中に飛び込む。
熱い――けれど、不思議と痛くはなかった。
光の中で、陽菜の体がゆっくりと揺れていた。
「…翔流くん。あのね、私ね…本当は、怖かったの」
「何がだよ」
「忘れていくのも、消えちゃうのも。でも…今はもう、大丈夫」
翔流の喉が詰まる。
「やめろ、そんなこと言うなよ!俺が守るって」
陽菜は微笑んだ。
「翔流くんが、いてくれたから。だからね、もう――」
その声が途切れ、朱い光が一瞬、夜を染め上げる。
風が止まり、朱山の頂は静寂に包まれていた。
祭りの音も花火の残響も、すでに遠い。
ただ、祠の前にだけ朱い光が集まり、夜の闇の中でゆるやかに脈打っていた。
「わたし、ね。このままだと…。誰かを傷つけちゃう。だから、ここにいなきゃ」
「そんなの、させるかよ」
翔流は彼女の華奢な肩に手を回すと抱き寄せる。
陽菜は大きく目を見開き
「ふふ。また願いがひとつ叶っちゃった」
儚げに笑うのだった。
その瞬間、腕の中で陽菜が小さく息を呑んだ。
浴衣の胸元から、朱い血が滲み出す。
翔流の手のひらが温かいもので濡れ、震える声が漏れた。
「…陽菜?これ…」
陽菜は微笑んだ。
その瞳は、どこまでも優しかった。
「翔流くん、大好き。
わたしね、翔流くんだけは何があっても守りたいの」
唇の端から血が伝い、翔流の胸に落ちた。
それでも陽菜は、微笑みを崩さなかった。
翔流はその顔を両手で包み、唇を重ねた。
朱の光が一瞬強く瞬き、それは翔流の中に吸い込まれる。
抱きしめた身体がふっと軽くなり、翔流の心の奥に熱が流れ込んでいく。
――あぁ、そうか。
俺は、陽菜のことが…こんなにも、愛してたんだ。
今まで人の想いを感じ取ることはできても、いや。出来るからこそ。
自分の心を知ることはなかった。なんでも出来る彼には自分を省みる時間は不要に近かったから。
それを今、初めて知った。
唇が離れると、陽菜は静かに笑い、か細い声で囁いた。
「…ずっと、そばに居てね」
翔流は涙をこぼしながら答えた。
「当たり前だろ。俺も…お前のことが好きだ」
その言葉に、陽菜は微笑み、
血に濡れた手をそっと翔流の頭に伸ばした。
その指が髪を撫でる。
優しく、子供をあやすように――そして、愛する人を包むように。
「…よかった」
その一言を最後に、陽菜の身体が淡く光り始めた。
朱い光が足元から立ちのぼり、彼女の輪郭をゆっくりと溶かしていく。
指先が霧のように透け、翔流の頬をかすめて消えた。
「陽菜…?」
呼びかけた声に、返事はない。
ただ、風が祠を抜け、光の粒が夜空に昇っていった。
朱い残光が、まるで空へ還るように静かに消えていく。
――もう、離さないでね。翔流くん
そんな声を、確かに聞いた気がした。
静まり返る森の中は、風が葉を揺らす音も虫の声さえもなく、ただ耳が痛いほどの静寂だけ。
それは翔流の虚無感を加速させて行く。
もうこれ以上、俺達の距離は縮められないのか…。
陽菜…。
翔流の視界が滲み、意識は、朱の闇へと沈んでいった。
「陽菜…」




