第八章 その9
朝――。
翔流は夢の中で誰かの声を聞いた。
優しく、泣きそうで、それでいて遠い声。
手を伸ばしたはずなのに、その温もりは指の先でほどけていく。
はっと目を覚ますと、額には冷や汗が滲んでいた。
息が乱れている。胸の奥がざわついて、何かを忘れてしまったような感覚だけが残っていた。
カーテンの隙間から射す朝の光は柔らかく、遠くから祭りの準備を知らせる太鼓の音が響いていた。
「…祭りか」
呟いても、胸のもやは晴れない。
けれど、今日は行かなければならない。
“約束”がある。
その言葉だけは、頭の奥にしっかりと刻まれていた。
夕方。
陽が傾き、朱山の稜線が赤く染まる頃。
翔流は鏡の前に立っていた。
白いシャツに、濃紺のカーディガン。
いつものように無造作ではなく、きちんと袖を通した。
襟を整え、髪を手で軽く撫でる。
たったそれだけなのに、胸の鼓動が妙に早い。
「…別にデートってわけじゃねぇし」
そう呟きながらも、結局もう一度、前髪を整えてしまう。
机の上には、小さな包みが置かれていた。
昨日、駅前でふと目に留まって買った髪飾り。
白い小花に小さな鈴が付いている。
「…似合うといいけどな」
西の空が茜に染まる中、翔流は静かに玄関を出た。
坂道を下りる風が少し冷たい。
夕暮れの匂いとともに、どこからか焼きそばと金魚の香りが混じったような、祭り前の空気が漂っていた。
その頃、陽菜の家では――。
祖母の手を借りながら、陽菜は浴衣の帯を結んでもらっていた。
淡い藍地に白い百合の花が散る布地。
袖が少し長くて、彼女が動くたびに花が揺れた。
「おばあちゃん、このお花の柄はなぁに?」
「これはね、百合の花。陽菜には花柄がよく似合うねぇ」
「百合…。可愛いね」
陽菜は照れくさそうに笑い、鏡に映る自分の姿を見つめる。
その目には、ほんの少しだけ、遠い夢を見るような霞がかかっていた。
祖母が帯を直しながら呟く。
「まるで花嫁さんみたいだね」
「もぉ、おばあちゃん。そんなこと言わないでよ」
陽菜は笑いながら頬を赤らめた。
そして、空がすっかり茜色に染まる頃。
門の外から足音がした。
「翔流くん!」
振り向いた陽菜の声に、翔流の息が止まった。
彼女は淡い光の中に立っていた。
風に揺れる浴衣の裾。
頬を染め、微笑むその姿は――まるで夢の中の人のようだった。
「…なぁに?ぼーっと見て」
「あ、あぁ…ごめん。その…綺麗だなって」
陽菜の頬がぱっと朱に染まる。
「もー!すぐまたそんなこと言う!照れちゃうじゃない!」
「本心だよ。すごく、似合ってる」
「…ありがと」
言葉を交わすたび、陽菜の笑顔がふわりと揺れる。
翔流はその手をそっと差し出した。
「行こっか」
「うん」
指先が触れた瞬間、陽菜の小さな手が握り返す。
その温もりに、翔流は胸の奥で何かがきしむのを感じた。
二人の背後で、朱山の稜線が夕闇に沈んでいく。
提灯の灯りが道を照らし、夜の始まりを告げていた。
――朱山神社の例大祭へ。
彼らの最後の約束の夜が、静かに幕を開けた。




