第八章 その7
翌朝。
夜の冷気がまだ残る空気の中を、翔流は駅から歩いていた。
夜明けの空は淡く、稲穂の先に朝露が光っている。
遠くの山には薄く靄がかかり、朱山の稜線だけがはっきりと浮かんでいた。
陽菜の家の前には、いつものように彼女がいた。
カーディガンを羽織り、両手で温かい息を吹きかけながら翔流を待っている。
「おはよう、翔流くん」
「おはよう。今日も早いな」
「だって、翔流くんが来るから」
屈託のない笑顔に、翔流の頬が緩む。
「そりゃ悪かったな。もう少し寝てていいのに」
「んー、でも朝の空気、好きだよ」
ふたりは並んで里道を下りていく。
坂の途中、風に揺れる秋桜が視界いっぱいに広がっていた。
白と桃と淡紅の花が、朝日を受けてきらめく。
陽菜は立ち止まり、ふわりと微笑んだ。
「ねぇ、翔流くん。秋桜、きれいだね。
私ね、このお花、大好きなの。お庭にも植えてるんだ」
「そうなのか。たしかに陽菜っぽいな」
「え?どこが?」
翔流は少し笑って、空を見上げた。
「風に吹かれても折れないとこ。
見た目より、ずっと強いところ」
陽菜は頬を染め、両手で顔を覆う。
「もー、そういうのやめてよ」
「本気だって」
「だから余計に照れるの!」
陽菜の笑い声が風に乗って、秋桜の間を抜けていく。
――けれど、その翌朝。
同じ場所で、同じ花を前に、陽菜はまるで初めて見たような顔をした。
「わぁ、見て翔流くん。このお花、きれいだね。
これ、なんていうお花なんだろう?」
翔流の胸が締めつけられる。
昨日とまったく同じ道、同じ時間、同じ風景。
なのに、彼女の記憶だけが昨日を知らない。
「……あぁ、秋桜だよ」
「コスモス、かぁ。名前も可愛いんだね」
陽菜は嬉しそうに笑う。
翔流はその笑顔を見つめながら、喉の奥が詰まった。
――好きだった花の名前も、もう忘れてしまったんだ。
無理に笑顔を作るが、視界が滲む。
陽菜が首を傾げ、翔流の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、翔流くん…泣いてるの?」
「…ちょっと風が、な」
「ふふ、男の子なのに涙もろいんだね」
陽菜は優しく笑って、翔流の袖を引いた。
「大丈夫。泣かないで。秋だからかな?ちょっと寂しい気持ちになるよね」
翔流は俯きながら微笑んだ。
「…あぁ、秋だからかもな」
「お祭りでは泣かないでね」
陽菜は何も知らずに屈託なく笑う。
翔流はその笑みを焼き付けるように見つめ、胸の奥で小さく呟いた。
――どうなっても、陽菜は陽菜だよな。少しくらい忘れてもいい。この笑顔が続く限りは。




