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朱の山  作者: 晦ツルギ
第一幕

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5/107

第二章 その3

放課後の教室。

黒板脇の当番表を見上げて、担任が名簿をめくる。

「今日の廊下掃除は……春日。もう一人は欠席か」

少し考え込んだあと、ふっと顔を上げる。

「……代山。お前、頼む」


呼ばれた名前に、陽菜の肩がびくりと震えた。思わず目を丸くし、小さく息を呑む。頬にほんのり赤みが差し、視線をすぐに伏せた。


「はい、いいですよ」

翔流は自然な調子で立ち上がる。いつもの肩の力の抜けた笑顔。

陽菜は慌てて会釈し、「……よろしく、お願いします」とか細い声を落とした。


廊下には西日が差し込み、光の帯が床を照らしている。

陽菜は真面目に雑巾を絞り、黙々と膝をついて端から端へと拭き進める。隅の埃も取り残すまいと、真剣な眼差しだった。


翔流も隣に膝をつき、雑巾を滑らせながら笑う。

「ここ、汚れてるな。ほら、ちょっと見ろよ。ピカピカ」

指先で拭き上げた床を軽くこする。


陽菜は思わず「ふふっ」と笑いそうになり、慌てて唇を押さえる。

「……ほんとだ」

小さく答えながらも、耳まで赤らんでいた。


二人で息を合わせるように拭き進める。バケツの水を換えるリズムも、雑巾を絞る音も、不思議と揃っていた。

――ただの掃除なのに、陽菜の胸はほんのりと弾む。


翔流も真面目に手を動かしながら、どこか楽しそうだ。

「二人なら早いな。今日中に全部終わりそうだ」

「……うん」

陽菜の返事は短くても、そこには柔らかさがあった。


角を曲がった先、洗剤の薄い膜がまだ床に残っていた。

陽菜がそこに雑巾を伸ばした瞬間――


つるり、と足元が泳ぐ。

視界がふっと傾き、陽菜の体が前へと崩れかけた。


「おっと――!」 すぐ傍にいた翔流の腕が伸び、陽菜の肩を支える。

体がぴたりと止まり、陽菜は驚きに目を見開いた。

頬が熱を帯び、心臓が一気に跳ね上がる。


「だ、大丈夫か?」 至近の声に、陽菜は慌てて顔をそらす。

「……っ、ありがとう」


頬を染め、恥ずかしそうに口にするその笑顔は、幼いころに一緒に過ごした日の姿と重なって見えた。 翔流の口元にも自然と笑みが浮かぶ。

どこか懐かしい温もりを思わせる一瞬だった。


そのとき、背後でガタン、と大きな音。 掃除用具のバケツが倒れ、床に水が広がっていく。

「うわ、危ないな……俺が蹴っちゃったか」

翔流は苦笑しながら水を雑巾で拭い、バケツを持ち上げる。

底には小さな穴が空いており、そこからぽたぽたと水が落ちていた。

「……やっちゃったなぁ。錆びてたんだな、これ」

軽い調子で言いながら、バケツを棚に戻す。


陽菜は一瞬だけ、バケツを振り返ろうと足を止めた。

だが「おい、こっち片付けようぜ」と翔流に声を掛けられ、慌てて向き直る。

吹奏楽部の練習音や運動部の掛け声が遠くから重なり合い、その小さな違和感は心の中で「まあ、いいか」とかき消されていった。


棚に置かれた金属バケツ。

その裏側には、陽菜の視線の届かないところで鋭く裂かれた痕が残されている。

縁はわずかに捻じれ、薄い紙を引き裂いたかのようだった。


翔流の元へ歩み寄った陽菜の前にあったのは、笑顔で待つ彼の姿。


束の間の幸せが、夕暮れの光の中に静かに息づいていた。

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