第二章 その3
放課後の教室。
黒板脇の当番表を見上げて、担任が名簿をめくる。
「今日の廊下掃除は……春日。もう一人は欠席か」
少し考え込んだあと、ふっと顔を上げる。
「……代山。お前、頼む」
呼ばれた名前に、陽菜の肩がびくりと震えた。思わず目を丸くし、小さく息を呑む。頬にほんのり赤みが差し、視線をすぐに伏せた。
「はい、いいですよ」
翔流は自然な調子で立ち上がる。いつもの肩の力の抜けた笑顔。
陽菜は慌てて会釈し、「……よろしく、お願いします」とか細い声を落とした。
廊下には西日が差し込み、光の帯が床を照らしている。
陽菜は真面目に雑巾を絞り、黙々と膝をついて端から端へと拭き進める。隅の埃も取り残すまいと、真剣な眼差しだった。
翔流も隣に膝をつき、雑巾を滑らせながら笑う。
「ここ、汚れてるな。ほら、ちょっと見ろよ。ピカピカ」
指先で拭き上げた床を軽くこする。
陽菜は思わず「ふふっ」と笑いそうになり、慌てて唇を押さえる。
「……ほんとだ」
小さく答えながらも、耳まで赤らんでいた。
二人で息を合わせるように拭き進める。バケツの水を換えるリズムも、雑巾を絞る音も、不思議と揃っていた。
――ただの掃除なのに、陽菜の胸はほんのりと弾む。
翔流も真面目に手を動かしながら、どこか楽しそうだ。
「二人なら早いな。今日中に全部終わりそうだ」
「……うん」
陽菜の返事は短くても、そこには柔らかさがあった。
角を曲がった先、洗剤の薄い膜がまだ床に残っていた。
陽菜がそこに雑巾を伸ばした瞬間――
つるり、と足元が泳ぐ。
視界がふっと傾き、陽菜の体が前へと崩れかけた。
「おっと――!」 すぐ傍にいた翔流の腕が伸び、陽菜の肩を支える。
体がぴたりと止まり、陽菜は驚きに目を見開いた。
頬が熱を帯び、心臓が一気に跳ね上がる。
「だ、大丈夫か?」 至近の声に、陽菜は慌てて顔をそらす。
「……っ、ありがとう」
頬を染め、恥ずかしそうに口にするその笑顔は、幼いころに一緒に過ごした日の姿と重なって見えた。 翔流の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
どこか懐かしい温もりを思わせる一瞬だった。
そのとき、背後でガタン、と大きな音。 掃除用具のバケツが倒れ、床に水が広がっていく。
「うわ、危ないな……俺が蹴っちゃったか」
翔流は苦笑しながら水を雑巾で拭い、バケツを持ち上げる。
底には小さな穴が空いており、そこからぽたぽたと水が落ちていた。
「……やっちゃったなぁ。錆びてたんだな、これ」
軽い調子で言いながら、バケツを棚に戻す。
陽菜は一瞬だけ、バケツを振り返ろうと足を止めた。
だが「おい、こっち片付けようぜ」と翔流に声を掛けられ、慌てて向き直る。
吹奏楽部の練習音や運動部の掛け声が遠くから重なり合い、その小さな違和感は心の中で「まあ、いいか」とかき消されていった。
棚に置かれた金属バケツ。
その裏側には、陽菜の視線の届かないところで鋭く裂かれた痕が残されている。
縁はわずかに捻じれ、薄い紙を引き裂いたかのようだった。
翔流の元へ歩み寄った陽菜の前にあったのは、笑顔で待つ彼の姿。
束の間の幸せが、夕暮れの光の中に静かに息づいていた。




