第八章 その4
昼休みの屋上。秋風が乾いた葉を巻き上げていった。
朱山の稜線は薄く霞み、空の高いところを雲が緩やかに流れている。
翔流はグラウンド脇のフェンスに寄りかかり、ぽつりとつぶやいた。
「陽菜はさ――あれから、新しいことを覚えてないんだ」
悠眞が隣に立つ。夕陽のせいで、その横顔はどこか硬い。
「…まるで同じ朝を繰り返してる、ってことか」
「そう。昨日のことも、今日のことも、次の日には消える。
まるで時間が進んでないみたいなんだ」
翔流の声には焦りが混じっていた。
悠眞は一拍置いてから、低く言った。
「それが咎の影響だとしたら…封印を壊して、中の“何か”を斬るしかないんじゃないか」
その言葉に、翔流は顔を上げた。
「待て待て。それは危険すぎる。
もし陽菜の意識があの中にあるなら、斬った瞬間に――陽菜まで消えるかもしれない」
悠眞は唇を引き結ぶ。
「だが、このまま何もしないで見ているのか? 記憶を失っていく彼女を」
「…違う。それだけは無いな」
翔流は首を振った。強い言葉ではなかったが、確かな響きがあった。
風が止まり、静けさが落ちる。
翔流は空を見上げ、ふっと息を吐いた。
「前にも言ったろ?陽菜が言ってたこと。
“この前、翔流くんと悠眞くんが家の前まで来たけど、開いてなかったから帰っちゃった”って」
悠眞が顔を上げる。「…あれか」
「ああ。神社裏に行った日のことだ」
翔流は手のひらを見つめた。
「夢の話だろうな。本人もそう言ってたよ。でも、あいつの言い方は――まるで本当にあったことみたいだった。
俺たちがあの祠の近くに行った時、陽菜はそれを感じていたのかもしれない」
悠眞の瞳が細くなる。
「…つまり、陽菜の意識はまだあの中に囚われている」
翔流はうなずいた。
「かも知れない、ってとこだけどな。だから、無理に壊すのは駄目だ。
陽菜の中にまたここに戻りたいって心があるなら、それを繋ぐ方が先だと思う」
悠眞はしばらく黙り、視線を落とした。
「…で、どうするつもりだ」
「誘うよ」
「誘う、とは?」
翔流は笑った。けれどその笑みはどこか切なかった。
「陽菜が言ってた。“夏祭りに一緒に行きたい”って。
夏は過ぎたけど――例大祭があるだろ。あれに誘う」
悠眞は少し驚いたように目を瞬かせた。
「…それで、何か変わるのか?」
「わからない。でも、少なくとも危険はない。
彼女が“覚えていられるもの”を作る。それが、きっと鍵になると思う」
悠眞はしばらく考え、それから小さく息を吐いた。
「理屈としては通ってる。だが、もし祭の前にすべてを忘れたら?」
「その時は、俺が思い出させる」
短く、けれど迷いのない声だった。
悠眞は空を見上げた。朱山の上に、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
「…わかった。お前のやり方で行こう。だが、無茶はするな」
翔流は肩をすくめた。
「お前がそれ言う?竹刀で斬っちゃうヤツが?」
わずかに笑いがこぼれる。
その笑いは、秋の冷たい風に溶けて消えていった。
朱山の稜線が紅く染まり、沈む陽の中で、二人の影だけが長く伸びていた。




