第八章 その1
朝の空気は澄んでいて、山の端には薄く靄がかかっていた。
陽菜の家の屋根は朝露で光り、藁葺きをトタンで葺き替えた急勾配の屋根が、青く冷たい空を映している。
翔流はまだ薄暗い駅で電車を降り、坂を上りながらその家へ向かった。
田んぼはすでに刈り取られ、土の匂いと朝露が混じって鼻をくすぐる。
ちょうど家から出て来た小さな人影が、こちらに気づいて手を振った。
「おはよう、翔流くん」
「おう、おはよう。早いな」
「うん、今朝はなんだか目が覚めちゃって」
陽菜はいつものように制服の裾を押さえ、笑いながら靴のつま先で砂利を蹴った。
翔流はさり気なく陽菜の鞄を受け取ると、ふたりは並んで歩き出す。
道はゆるやかに下り、里山の木々の間から差す陽光が、まだ柔らかい。
農家の犬が吠え、遠くでトラクターの音が響く。
「もうすぐ紅葉かな」
「そうだな。今年は早いかも」
「うちの裏山も、もうちょっとで真っ赤になるよ」
陽菜がそう言って目を細めると、翔流は横顔を見て、どこか懐かしい気持ちになった。
やがて住宅街が近づき、ふたりは川の上にかかる橋を渡る。
水面には、朝の光がちらちらと反射していた。
「ねえ翔流くん。この川って、どこに流れてるの?」
「海だよ。この辺の川はみんな、湾の方に繋がってる」
「へぇ、なんかロマンチックだね」
「川が?」
「うん、なんか遠くへ行くって感じがするでしょ」
翔流は少し笑って、欄干にもたれた。
「そっか。じゃあ、俺らも流されないようにしねーとな」
「ふふ、そうだね」
陽菜はそのまま川面を見つめていた。
風が吹き抜けて髪が揺れ、陽の光を透かして金色に見えた。
「……翔流くん、ちょっと大人っぽくなったみたい」
「そうか?」
「うん。なんか、前より落ち着いてる」
「気のせいだよ。朝が早いから眠いだけ」
陽菜はくすっと笑い、「そういうとこが大人っぽいんだよ」と言った。
川を渡る橋の上で、風が二人の髪を揺らした。
駅前の道に差しかかると、通勤通学の人々が増え、賑やかな声が少しずつ混じってくる。
それでも、ふたりの空間だけは不思議と静かだった。
「…こうして歩くの、久しぶりだね」
「そうだな。なんか、懐かしい気がする」
陽菜は頷き、空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し、彼女の瞳が一瞬、透き通ったように輝いた。
翔流はそれを見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
どうしてだろう――ただの朝なのに。
校門が見えてくる。
チャイムまでにはまだ時間があった。
ふたりは笑いながら歩き続けた。
それは、確かに存在した、静かで穏やかな時間。
けれどこのとき翔流はまだ知らなかった。
陽菜の今日が、翌日にはもう彼女の中から消えてしまうということを。




