第七章 その8
玄関をくぐると、足音が静まり返った屋敷に吸い込まれていった。
磨き上げられた床板は黒く艶を放ち、古い柱には長い年月の手跡が残っている。
奥へ進むと、右手の洋室――重厚な扉の向こうに、古い書斎があった。
机の上には万年筆と書類が整然と並び、書棚には革張りの書物がぎっしりと詰まっている。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、古い木目に薄く光の帯を描いていた。
翔流はその静けさに、一瞬だけ息を呑む。
まるで、空気そのものが時間を閉じ込めているようだった。
「ここで待っててくれ」
悠眞が言い残し、自室に荷を置きに行く。
その足音が戻って来るころ、廊下の向こうから低い声がした。
「代山の翔流か――久しぶりだな」
振り返ると、龍城継義が立っていた。
肩まで伸びた黒髪を後ろで束ね、背は悠眞よりさらに高い。
歳は四十五のはずだが、三十代のような若さと、静かな圧を纏っていた。
「ご無沙汰しております」
翔流が軽く頭を下げると、継義は愉快そうに口元を緩めた。
「ほう、“ご無沙汰”などと。年を取るはずだな」
「歳だなんて…最後に会ったときと、何も変わらないように見えますよ」
「世辞まで使いおるか」
柔らかく笑いながらも、その目の奥はどこか鋭い。
軽口を交わしながらも、翔流は感じていた。
この人の笑顔の裏には、常に何かを測るような静けさがある、と。
「で、久々に訪ねてきて、何の用だ?」
翔流はわずかに躊躇したが、すぐに息を整えた。
「――朱の咎のことを、知りたくて来ました」
一瞬、継義の目が細くなる。
笑みが消え、空気が変わった。
「……朱の咎、か」
その言葉を低く繰り返すと、ゆっくりと翔流の瞳を覗き込む。
「いい目をするようになったな。
お前の近しい者か?――咎憑きは」
「はい。春日陽菜。以前は一緒にお邪魔したこともある、幼馴染です」
「陽菜ちゃんか…。――そうか」
継義は僅かに視線を落とし、それからゆっくりと立ち上がると、背後の棚から紐で綴じられた古い本を取り出した。
紙の端は茶色く変色し、長く人の手を離れていたことを物語っている。
「私も、何人か見てきた。
一時的なものがほとんどだったが――幻覚を見たり、物が壊れたり。
だが、お前の話にある陽菜ちゃんの件は、その範疇ではないな」
本を机に置き、古い頁を一枚めくる。
指先が止まり、継義はそこを軽く叩きながら、まるで詠うように読み上げる。
「龍の遺骸は朽ちても、鱗や骨、牙などは残る。
それらは今も力を宿し、時として人に力を与える。
人には余る力、それが人を狂わせ、やがて咎となる」
「――罪を犯したからではない。ただ、力が人を選ばなかっただけだ」
継義は静かに頁を閉じた。
翔流の胸の中で、何かがざらりと動く。
陽菜のことが脳裏をかすめた。
あの時、車が弾かれたように逸れた光景――あれも力の一端なのか。
だが、継義の声はその思考を遮った。
「…悠眞。少し翔流と二人で話をしたい」
悠眞は一礼して退室した。
障子が閉まる。
静寂の中、継義は湯飲みを持ち上げたが、茶はもう冷めていた。
「お前の祖父は、代山の血が薄れていくのを恐れていた」
翔流の眉が動く。
「…血が?」
「ああ。
龍城の分家として生きながらも、代々、血が外へ流れ、力が弱まると感じていた。
そこでお前の祖父は、愚かな策を取った。
――お前の父を、自分の兄の娘と結婚させたんだ」
翔流は小さく息を呑んだ。
「…叔父の娘、ですか」
「表向きはな。だが実際は違う」
継義の声は淡々としているのに、どこか心胆を撫でるような冷たさがあった。
「その兄は子を成せなくてな。その娘は、彼の妾腹の子だった。
つまり、お前の祖父は“自分の血を、自分の孫に戻した”のだ。
代山の力を取り戻すために」
翔流は言葉を失う。
喉の奥が焼けるように痛い。
「…それが、お前の母親だ」
沈黙。
継義は目を伏せたまま、低く続けた。
「母親は、どこかでその真実を知った。
兄であり、夫である男を愛しながら、その愛が許されぬものだと気づいてしまった。
その矛盾が、彼女を壊したんだ」
翔流は視界の端が霞むのを感じた。
指先に力を込める。
皮膚の下で、鼓動が乱れる。
「…父は?」
「それ以来、家に戻らなくなった。
都の仕事にかこつけて、ほとんど顔を見せん。
在来線で2時間、新幹線で30分ばかりの距離だが、やつの心の距離はその比ではない。
あれは家を、土地を憎んでいるんだ」
翔流は俯いた。
どこかで聞いた“血の呪い”という言葉が、現実のものとして喉の奥に沈む。
「だが、祖父の目論見は――皮肉にも成功した」
継義が静かに言った。
「お前は悠眞に遜色ない力を持っている。
血は濃く混ざり合い、先祖返りした力を得た。
それがどう言う意味を持つのか…」
翔流は顔を上げた。
光の少ない書斎で、その瞳だけが静かに燃える。
「…それが、俺の生まれた理由だというんですか」
「理由など、誰も与えられん。
だが、お前には選ぶ力がある。
何を選ぼうとも、生き方は拓けている――それだけは自分で決めろ」
翔流は短く息を吐いた。
その目の奥に、陽菜の面影が揺れている。
彼女が抱えた咎と、自分が背負った血。
どちらも人の手に余るものでありながら、どこか似ていた。
「…なんであれ、俺は陽菜を助けます」
静かに、けれど確かに言葉が落ちた。
「この血で、誰かを救えるなら――それで十分。重畳ってモンですよ」
継義はしばし翔流を見つめ、やがて口元に小さな笑みを浮かべた。
「やはり、お前は代山の、いや。龍城の子だな」
外の風が木々を鳴らす。
障子の向こうに、虫の声が細く響いた。
翔流の胸の奥で、長く閉じていた何かが、静かに息をし始めた。




