第七章 その6
郷土資料館の窓から射す光が、木の床を淡く照らしていた。
古い建物特有の静けさ――
エアコンの低い唸りと、風に揺れる樹々のざわめき。
館内に来客の姿はなく、大きめの時計が時を刻む音、そして紙を纏めるホチキスの音だけが響いていた。
翔流はガラス扉を押し開ける。
軋む音と一緒に、外の風がふと流れ込んできた。
「こんにちは、美音さん。今日もお客は俺達だけかな?」
カウンターの奥で紙を綴じていた美音は顔を上げ、ぱっと微笑む。
「わっ。びっくりした!からかわないで下さいよ。って、俺…たち?」
翔流の後ろには、黒髪の少年が立っている。
彼と背格好は似ていたが、切れ長の瞳が人目を引く。
男子にしては少し長めの髪を後ろに流した少年だった。
日が傾き、彼の横顔を橙の光が切り取る。
「龍城悠眞です。翔流に誘われて来ました」
「龍城…?あの龍城家の…?」
「そー、その」
「どの、だよ」悠眞が呆れたように笑う。
「ここにある古文書の半分、龍城家の寄贈なんだろ?そりゃー、あの、だろ」
「だからってな…」
「定冠詞付けるならThe龍城だろ」
美音は少し困ったように笑い、二人を展示室の奥へ案内した。
硝子ケースに収められた古地図、蝋のようにくすんだ屏風絵、
古紙の匂いがふわりと漂っている。
「それで、今日も…」
翔流が椅子を引いて腰を下ろす。木の軋む音が響いた。
「朱の咎のこと、ですよね」美音が言った。
「ああ。前に言ってた、鎌倉時代の記録…」
「“龍頭山に朱の咎が起きた”とだけあります。
でも、それ以上はわからないんです。病名でも、災害でもない。
おそらくは、説明できない現象を、そう呼んだんだと思います」
翔流は腕を組み、しばらく黙っていた。
埃を含んだ陽光が漂い、机の上に粒子のような光が浮かぶ。
「…なあ、美音さん。
じつは最近、おかしなことが続いてるんだ」
美音が顔を上げる。翔流は少し考えてから話し始めた。
「春日陽菜って子がいるんだ。俺のクラスメイト。
先週、車に轢かれかけた」
「……え?」
「でも、ぶつからなかった。
俺の手が届かない、もう間に合わないって思った時に。
――車が、何かに弾かれたみたいに逸れたんだ。
道の真ん中だぜ?ガードレールがあったわけでもない。
ヘッドライトが砕けて、前の辺りは完全に変形してた。
そんで、そのまま別の方向に突っ込んで、運転手が気絶して…
陽菜は、無傷だった」
美音は言葉を失い、目を瞬かせる。
「…奇跡、ですね」
「奇跡って言えばそうかもな。けど…車はそのまま歩道に突っ込んで、歩いてた小学生を巻き込んだ。
陽菜は無傷だった。呆然と立ち尽くしてな。とりあえず引っ張って道路脇まで寄せたけど」
翔流の声が少し震えていた。
「本人は泣いてた。まるで『自分のせいだ』みたいに」
沈黙。
美音は胸の前で手を組み、少し眉を寄せる。
「…それが、朱の咎だと?」
「いや、わからない。けど…説明出来ない現象、だよね」
隣で聞いていた悠眞が、静かに口を開いた。
「…それなら、織江の件もそうかも知れない」
翔流が顔を上げる。
「織江先輩の?」
「剣道の練習中、突然、自分の腕を掻きむしって倒れた。
『鱗が生えた』と。――そう言ってな」
「鱗?」美音の声がかすかに震える。
「ああ。俺が駆け寄ったときには、もう血まみれで…
背中に何か、見えないものが纏わりついてた。
空気の歪み、みたいなものだ。
それを――斬った」
翔流が驚いて振り返る。
「…何を、どうしたって?」
「わからない。ただ、確かに手応えがあった。
そのあと、織江は気を失った」
美音は息を呑む。
風が展示室のカーテンを揺らし、紙が一枚、床に落ちた。
「…もう一つ、あるんだ」翔流が言った。
「夏祭りの夜、山車を倒した男がいたろ? 的屋の」
美音は目を見開く。
「ニュースで少し…見ました。怪我人が出たと」
「ああ。あの時、俺は見てた。屋台をこう…意に介せずとでもいうかな。進行方向を薙ぎ倒しながら進んで、
山車を両手で持ち上げたんだよ。
重さ、2トンはあるんだぜ? …人間の力じゃない」
悠眞が静かに腕を組んだ。
「…そいつ、どうなった?」
「警察に取り押さえられた。後から聞いたが、両肩脱臼してて、骨も折れて、それでも暴れてたって。
なんていうか、さ。俺や悠眞も、他の人より力が強かったり、なんでも出来たりするだろ?
でも、そんなもんじゃなかった。
気配っていうのかな。背中の空気が震えるみたいに見えた」
翔流は、思い出したくもない――そう言うような表情で言葉を締める。
美音は言葉を失い、机の上の古文書を見つめた。
そこには、墨の滲んだ一文。
――龍頭山二朱ノ咎アリ
光が沈み、展示室の中は朱から灰へと変わっていく。
外では、風が木々を揺らす音。
ゆっくりと鳴き始めた秋の虫の声の中、誰も声を出せずにいた。が。
「どこから始める?」
その静寂を斬り捨てるかのように、悠眞の凛とした声が響いた。




