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朱の山  作者: 晦ツルギ
第一幕

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31/107

第六章 その6

朝の光が朱山市郷土資料館の古い木枠の窓を通り抜け、

展示室の床を淡く照らしていた。

空気はまだひんやりとして、遠くで小鳥の声と、風に揺れる欅の葉音がかすかに混ざり合う。


美音は開館前の静かな館内で、埃を払うように展示ケースのガラスを拭いていた。

磨かれた面に映る自分の姿を見つめ「もう少し明るい口紅のほうがよかったかな」と、誰に聞かせるでもなく独り言をこぼす。

彼女の赤茶の髪は朝の光を受け、金色を帯びてきらりと光った。

毛先が自然に波打ち、左右に分けて結われた髪が肩にふわりと落ちている。


「…っと」

鍵を手に入口へ向かおうとしたとき、

ガラス戸の向こうに制服姿の影が映った。


「…あれ?」


扉を開けると、昨日の少年が立っていた。

どこか居心地悪そうに笑みを浮かべて。


「……また来ちゃいました」


美音は目を丸くして、それから小さく吹き出した。

「おはようございます。…まさか、ホントに朝から来るなんて」


「昨日の話、気になっちゃって」

翔流は後頭部を掻きながら、視線を泳がせる。


「熱心ですね。でも…学校は?」


「今日は…ちょっとお腹が痛くなったんだけど、電話切ったら治って」


「あー!悪いんだ」

美音は冗談めかして言いながら、

「でも、来てくれて嬉しいですよ」と柔らかく微笑んだ。


彼女の笑顔は、朝の空気よりも優しくて、翔流は一瞬、言葉を忘れた。


館内は、まだ静まり返っている。

展示室の奥からは紙の匂いと、古木のような甘い香りが漂っていた。

窓際の机の上には資料の束と、昨夜読みかけのメモが残っている。


「昨日あのあと、少し調べてみたんですけど、“朱の咎”という言葉はまだ出てこなかったんです。

 でも、まだ半分も見終わってないので……これから見つかるかもしれません」


「そうですか」

頷きながら翔流は美音の説明に聞き入る。彼女の柔らかな声は朝の空気に心地よく耳に入り込む。


「ただ、龍の伝承なら、いくつも記録が残ってますよ」

美音は机の引き出しから分厚い資料を取り出し、丁寧にページをめくる。

紙の音が静寂の中で心地よく響く。


「昔、朱山は“龍頭山りゅうずやま”と呼ばれていました。

 この辺りには海を割るほどの巨大な龍が棲んでいて、

 龍城家の始祖がその首を斬った――

 その首が山になり、胴が龍体山として連なった。

 …つまり、今の“朱山”はその龍の頭なんです」


翔流は、静かに聞き入っていた。

窓の外では、まだ低い太陽が山の端を朱に染め始めている。

光が差し込み、美音の髪の毛先を淡く照らした。


「でも…」と彼女は指先でページを押さえ、

ふと首をかしげる。


「興味深いんですけど、どの記録を見ても、

 “龍頭山”の前の地名が書かれていないんですよね」


「前の…って?」


「つまり、龍が生きていたころ、

 この土地にはまだ“山”そのものが存在しなかったんですね。

 “龍頭山”は――首を斬られて初めて生まれた山なんですよ。

頭がそのまま山になった、そういう伝説のようです」


翔流は一瞬、言葉を失う。

彼の視線の先で、朝霧をまとった朱山が静かに佇んでいる。


「……じゃあ、山の名前どころか、

 土地の名前すらなかったってことですか」


「ええ。まだ“人の言葉”が届かない場所だったのかもしれません」

美音は穏やかに微笑む。

その横顔にはどこか憂いがあった。


「でも、“朱”という字だけは後からつけられた。

 血の色、あるいは朝焼けの色――。

 けれどこの場合は、“龍の血が染めた山”という意味合いが強いですね」


翔流は息を飲んだ。

「血の…色」


「それと、“海を割る”という表現。

 私は、あれを読むたび思うんです。

 もしかしたらこの龍、海の向こう――つまり常世とこよから来たんじゃないかって」


「常世…?」


「古代では、海の向こうは生も死もない異界――常世と呼ばれていました。

 常世から来た客人は、神にも災いにもなる。

 この龍も、その“常世の客人”だったのかもしれません」


翔流は黙ってその言葉を反芻した。

館内の光が少し傾き、机の上の紙の影がゆるやかに動く。


「海から来た客人が山になる――

 そう考えると、常世からの恵みのようにも見えますね」

美音は笑みを浮かべた。

けれどその瞳の奥には、ほんのわずかに翳りが見えた。


「……もっとも、この話ではその客人の首を斬っちゃってるんですけどね」


翔流が吹き出す。

「たしかに。物騒な話だな」


二人の笑い声が、静かな展示室にやわらかく響いた。

光がポスターの龍を照らし、その鱗が朱にきらめく。

まるで伝承の龍が、遠い記憶の中でゆっくりと息をしているようだった。


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