第六章 その6
朝の光が朱山市郷土資料館の古い木枠の窓を通り抜け、
展示室の床を淡く照らしていた。
空気はまだひんやりとして、遠くで小鳥の声と、風に揺れる欅の葉音がかすかに混ざり合う。
美音は開館前の静かな館内で、埃を払うように展示ケースのガラスを拭いていた。
磨かれた面に映る自分の姿を見つめ「もう少し明るい口紅のほうがよかったかな」と、誰に聞かせるでもなく独り言をこぼす。
彼女の赤茶の髪は朝の光を受け、金色を帯びてきらりと光った。
毛先が自然に波打ち、左右に分けて結われた髪が肩にふわりと落ちている。
「…っと」
鍵を手に入口へ向かおうとしたとき、
ガラス戸の向こうに制服姿の影が映った。
「…あれ?」
扉を開けると、昨日の少年が立っていた。
どこか居心地悪そうに笑みを浮かべて。
「……また来ちゃいました」
美音は目を丸くして、それから小さく吹き出した。
「おはようございます。…まさか、ホントに朝から来るなんて」
「昨日の話、気になっちゃって」
翔流は後頭部を掻きながら、視線を泳がせる。
「熱心ですね。でも…学校は?」
「今日は…ちょっとお腹が痛くなったんだけど、電話切ったら治って」
「あー!悪いんだ」
美音は冗談めかして言いながら、
「でも、来てくれて嬉しいですよ」と柔らかく微笑んだ。
彼女の笑顔は、朝の空気よりも優しくて、翔流は一瞬、言葉を忘れた。
館内は、まだ静まり返っている。
展示室の奥からは紙の匂いと、古木のような甘い香りが漂っていた。
窓際の机の上には資料の束と、昨夜読みかけのメモが残っている。
「昨日あのあと、少し調べてみたんですけど、“朱の咎”という言葉はまだ出てこなかったんです。
でも、まだ半分も見終わってないので……これから見つかるかもしれません」
「そうですか」
頷きながら翔流は美音の説明に聞き入る。彼女の柔らかな声は朝の空気に心地よく耳に入り込む。
「ただ、龍の伝承なら、いくつも記録が残ってますよ」
美音は机の引き出しから分厚い資料を取り出し、丁寧にページをめくる。
紙の音が静寂の中で心地よく響く。
「昔、朱山は“龍頭山”と呼ばれていました。
この辺りには海を割るほどの巨大な龍が棲んでいて、
龍城家の始祖がその首を斬った――
その首が山になり、胴が龍体山として連なった。
…つまり、今の“朱山”はその龍の頭なんです」
翔流は、静かに聞き入っていた。
窓の外では、まだ低い太陽が山の端を朱に染め始めている。
光が差し込み、美音の髪の毛先を淡く照らした。
「でも…」と彼女は指先でページを押さえ、
ふと首をかしげる。
「興味深いんですけど、どの記録を見ても、
“龍頭山”の前の地名が書かれていないんですよね」
「前の…って?」
「つまり、龍が生きていたころ、
この土地にはまだ“山”そのものが存在しなかったんですね。
“龍頭山”は――首を斬られて初めて生まれた山なんですよ。
頭がそのまま山になった、そういう伝説のようです」
翔流は一瞬、言葉を失う。
彼の視線の先で、朝霧をまとった朱山が静かに佇んでいる。
「……じゃあ、山の名前どころか、
土地の名前すらなかったってことですか」
「ええ。まだ“人の言葉”が届かない場所だったのかもしれません」
美音は穏やかに微笑む。
その横顔にはどこか憂いがあった。
「でも、“朱”という字だけは後からつけられた。
血の色、あるいは朝焼けの色――。
けれどこの場合は、“龍の血が染めた山”という意味合いが強いですね」
翔流は息を飲んだ。
「血の…色」
「それと、“海を割る”という表現。
私は、あれを読むたび思うんです。
もしかしたらこの龍、海の向こう――つまり常世から来たんじゃないかって」
「常世…?」
「古代では、海の向こうは生も死もない異界――常世と呼ばれていました。
常世から来た客人は、神にも災いにもなる。
この龍も、その“常世の客人”だったのかもしれません」
翔流は黙ってその言葉を反芻した。
館内の光が少し傾き、机の上の紙の影がゆるやかに動く。
「海から来た客人が山になる――
そう考えると、常世からの恵みのようにも見えますね」
美音は笑みを浮かべた。
けれどその瞳の奥には、ほんのわずかに翳りが見えた。
「……もっとも、この話ではその客人の首を斬っちゃってるんですけどね」
翔流が吹き出す。
「たしかに。物騒な話だな」
二人の笑い声が、静かな展示室にやわらかく響いた。
光がポスターの龍を照らし、その鱗が朱にきらめく。
まるで伝承の龍が、遠い記憶の中でゆっくりと息をしているようだった。




