第六章 その3
展示室を歩く靴音が、静まり返った空間にゆっくりと響いていた。
翔流は壁に並ぶパネルを一枚ずつ眺めながら、
ところどころに貼られた説明文を指先でたどっていく。
古い和紙に書かれた龍の伝承、
海と山にまつわる神事の記録、
そして“朱”という名を冠した地名の由来――。
(ふうん……結構いろいろあるんだな)
興味深そうに読みながらも、どこか探すような目つきだった。
展示室の奥に立つ、学芸員の女性が視界の端に映る。
美音は、閉館準備のために書類をまとめている最中だった。
(この人が描いたのかな。あのポスター……)
鮮やかな朱の龍が、今も壁の上でゆらりと揺れている。
翔流は少し足を止め、その絵に見入った。
時間の感覚が、ふと抜け落ちていた。
いつの間にか、窓の外は群青に沈み、
展示室の照明がガラス越しに夜を照らしている。
「あ――」
我に返ったように声が漏れる。
壁の時計を見上げると、針は五時半を回っていた。
「とっくに閉館時間、過ぎてます…よね…?ごめんなさい。また明日出直します」
慌てて出口へ向かおうとした翔流に、美音が顔を上げた。
「あ、いえ!ホントに大丈夫ですよ。お気になさらず、伺いますね」
「いや、流石に。ご迷惑かけるわけにはいかないんで」
軽く頭を下げ、笑みを残して翔流は扉を押した。
―カラン。
ドアベルが、入るときよりも静かに鳴る。
美音はその音を背に受けながら、
展示パネルの照明を一つ、また一つと落としていった。
柔らかな闇が部屋を包み、
最後の一灯を消すと、彼の影が残像のように瞼に焼きついた。
玄関の方を振り返る。
外の空には、迫る夜に溶けかけた朱山の稜線。
淡い群青と朱のあわいに、風がかすかに流れていた。
(…きっと、また来てくれるよね)
胸の奥で、小さな灯りのようにその声が残っていた。




