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朱の山  作者: 晦ツルギ
第一幕

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25/107

第五章その6

剣道場では竹刀がぶつかる乾いた音が、場内に反響していた。

掛け声と踏み込みの音。織江は何度目かの打ち込みで息を整えた。


(……身体が重い)


いつも通りの稽古の風景。

けれど今日に限って腕が思うように上がらない。握った竹刀の感触もどこか遠く、

呼吸の合間にわずかな眩暈が走る。


「織江先輩、大丈夫ですか?」

後輩の声に、織江は笑ってみせた。

「ちょっと疲れただけ。平気よ」


言葉とは裏腹に、手の内が震えている。

左腕の内側に、妙な熱がこもる。

(なんだろう…?今朝から…ううん。夜から何か…)

悪い感触を振り払うようにもう一度構えた。

竹刀が弾かれる音が響く。



その頃、翔流は午後の授業を受けている。


(学園祭の展示…準備は楽しかったけど、補講になるのはつまんねーな)


教室の窓から体育館と道場を見下ろすと、展示の無かった進学科は部活をしているようだった。


(悠眞は部活だろうな…。井細田や美羽は…自習でもしてそうだよなぁ。俺には真似出来ないね)


ぼーっと受けていた授業の中、黒板の前に立つ教師の声が、ふいに耳に入る。

「――“罪”と“咎”の違いを説明できますか?」


静まり返る教室。

翔流はシャープペンを回しながら、窓の外で揺れる木々をぼんやりと見ていた。


「“罪”は、明確な過ちです。

 意図して誰かを傷つけたり、法を犯したときに問われるもの。

 対して“咎”は――罪と言えない過失。

 悪意がなくても、結果として責めを負うことを指します。

 つまり、“罪がなくても咎はある”んですね」


教師がチョークを置く音が響く。

翔流はノートを取るふりをしながら、その言葉を反芻した。


(罪がなくても、咎はある…)

(悪意がなくても、責めを受ける…)


黒板に残った二つの文字を見つめながら、

なぜか妙に胸に引っかかる。


(罪…咎…)


言葉を繰り返すと風が教室の窓を揺らした。

白いカーテンがはらりと舞い、外の空が薄い朱に染まり始めていた。



その頃、道場。


織江は稽古を切り上げ、水を飲もうと小手を外した。

手の平がじんわりと熱い。

小袖の中に何かが貼り付いているような違和感。


(……汗、じゃない)


思わず袖を捲る。

白い肌の上に、光の反射が走った。


薄く硬い何かが皮膚からささくれ立つように蠢いている。


「やだ……なに、これ……?」


指で触れると、自分の皮膚と同じように触れられた感触まである。

(鱗…?)

爪を立て、剥がそうとするが、にわかに数を増し腕を覆っていく。


「やだぁっ……やだぁあああ!」


悲鳴が響く。

竹刀が床を転がり、自らの腕を掻きむしる織江の姿に注目が集まる。

彼女がなぜ自ら腕を掻きむしるのか、誰もわからなかった。

周りの生徒達には彼女に起きている異変は見えず、ただただ織江は自らの腕に爪を立て、血を流している。

彼女の純白の胴着は今や血に染まっており、腕を抱えるようにして膝から崩れ落ちていった。


「だれか…っ」

声が震える。涙が頬を伝い、嗚咽が漏れる。



再び教室内。


翔流はノートに書き込んだ2つの文字を見つめながらおでこの上辺りを掻く。

考えるときの彼のクセのようなものだった。

(咎…とが…トガ…)

髪を搔いていた手に力が入り、自らの髪をまるで掴むような形で動きを止める。


(アケノ…咎…?)



そして静まり返った道場では―。


「はるくん…っ助けて…」


その呟きと泣き声が道場の中に染み渡る。

誰もがただ呆然と立ち尽くし、その異様な光景に声も上げられなかった。


「織江!」


悠眞の声が空気を裂いた。

皆が狼狽え立ち尽くす中で、悠眞だけは違っていた。

少し離れた場所で防具を着けようとしていた彼は、被りかけた面を投げ捨てながら織江の元に走る。


ほんの僅かな道場内の距離が、彼にはとても長く感じられた。


(早く織江のところに!)


ようやく辿り着くと――と言って時間にしては数秒ほどなのだが――織江を抱きとめる。しかしその背後。そこだけ空気が歪むように見える。

目に見えない“何か”が、確かにそこに居ると感じられる。


(…俺を見ている)


そう感じた。

実際に視線を感じ、目が合った。と、確信した。

理屈ではなく本能がそれを告げていた。


咄嗟に手で振り払う。

それは織江から少しだけ離れると、再び戻ろうと近寄る。

悠眞は一歩踏み込み、落ちていた織江の竹刀を握ると、正眼に構える。

竹刀を握る手が自然に構えを取らせたのだった。

呼吸が研ぎ澄まされ、音が遠のく。手の先にある竹刀の重ささえ感じなくなる―


(やれるか?こんな竹刀なんかで)


歪みが蠢く。

それはまるで空間が波打つかのように。


(俺を警戒しているのか?)


悠眞の身体が反射的に動く。


踏み込み、抜き打ち。

刃が空を切るたびに、風が悲鳴のような音を立てた。

一度、二度――歪みが裂ける。

だが、完全には消えない。


(違う。斬るべきは…)


気づいた瞬間、彼はその中心へと心を収束させた。

歪みの核、目に見えない“首”へ向けて。


「――っ!」


一閃。

空気が真っ二つに裂け、何かが弾けたような衝撃が道場を駆け抜けた。

視界が白く染まり、音が消える。


そして、何も残らなかった。


悠眞の足元で、ただ血の滴る音だけが小さく響いた。

織江は崩れ落ちるように座り込み、

血のにじむ腕を抱えている。


「織江!」


駆け寄り、肩を支えた瞬間、

彼女が悠眞を見据え、かすかに唇を震わせた。


「…信じてたよ…」


その呟きともに、織江の身体から力が抜ける。

悠眞はただ、その温もりを抱きしめることしか出来ないでいた。


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