第五章その4
朱山の裾を吹き抜ける風は冷たく、空はすでに秋の深い色を帯びていた。
交流戦を終えたばかりの道場を後にし、織江は裏の小径を辿っていた。
夕暮れの光が山肌を薄く染め、常に紅い木々の影が地面に長く伸びている。
靴底に乾いた葉が割れる音だけが、静まり返った山道に響いた。
(女の子は剣なんか振り回してないで…)
踏みしめるたびに、胸の奥で母のその言葉が沈む。
風の匂いに混じるのは、稽古場に残った汗と畳の記憶。
昨日、あの瞬間。悠眞は自分の太刀筋を完全に読んでいた―。それだけが、鮮明に焼き付いていた。
やがて道は狭まり、木々の間にぽっかりと空いた小さな空き地に出た。
枝の間からこぼれる橙の光が、まだらに地面を照らしている。
そこだけ時間が止まったように、風も音も穏やかだった。
ふと、視線の先に何かがあった。
崩れた石の塊―かつては何かの土台だったのかもしれない。
苔が厚く張りつき、輪郭はもうほとんどわからない。
(…なんだろう。昔の石垣、かな)
そう思ったが、すぐに興味を失いかけた。
ただ、足元の落ち葉に滑りかけ、とっさに手をついた。
掌が触れたのは、その石の表面だった。
―じわり、と。
ほんの一瞬、皮膚の奥で何かが逆流したような感覚。
地面の温度ではない。
空気の層がひとつ、静かに裏返るような違和感。
風が止み、音が遠のいた。
耳鳴りのような沈黙が訪れる。
光も、匂いも、色も、すべてが薄くなって――
世界の輪郭がわずかにずれたような気がした。
「…っ」
織江は息を詰め、慌てて手を離した。
見上げた木々の間を、一羽の烏が低く横切る。
音が戻る。風が草を撫で、空の色がゆるやかに赤に戻っていく。
(なに、今の……?)
胸の奥にざらつく重さが残る。
それは痛みではなく、恐怖でもない。
けれど、どこかで何かが―ほんのわずか、壊れた気がした。
夕暮れの朱は次第に紫を帯び、山の端に沈みかけていく。
織江は小さく息を吐き、背を向けた。
帰り道、風がまた動き始め、落ち葉が舞い上がる。
その音に紛れるように、先ほどまで居た背後の空間で。苔むした小石が一つ転がり落ちた。




