第五章その2
文化祭が終えて暫く。週末に控えた交流戦を前に、剣道部の稽古場は熱気に包まれていた。
板張りの床を踏み鳴らす音がひときわ大きく、乾いた竹刀の打突音が木霊している。
掛け声、息遣い、汗の匂い―すべてが交じり合い、部員たちの緊張を高めていた。
「次、石神と龍城!」
顧問の声が響くと、場の空気が少し揺れた。
織江は竹刀を握り直し、ゆっくりと悠眞の前に進み出る。
「お願いします」
凛とした声を出し、蹲踞から悠然と立ち上がる。
悠眞は静かに頭を下げる。
「お願いします」
その声音には抑揚がない。けれど不思議と気迫を感じさせる。
構え合い、一瞬の静寂。汗が首筋を伝い落ちる。
最初に動いたのは織江だった。
「面っ!」
全身を込めた鋭い踏み込み。しかし、竹刀は虚しく弾かれる。逆に悠眞の小手が的確に突き刺さった。
(早い……!)
反射的に体勢を立て直す。だが悠眞は一歩も動かず、ただ彼女の動きを見ているだけに思えた。
挑発でもなく、余裕でもない。ただ揺らがぬ岩のような静けさ。
(後の先を狙おうって腹なのね)
二合、三合と交わるたびに、織江の呼吸は荒くなっていった。
「まだ!」
心で叫びながら面に飛び込む。しかし悠眞はほんのわずかに間合いを外し、鋭く胴を斬り払う。乾いた打突音が道場に響いた。
その瞬間、勝負が決した。
「……参りました」
織江は竹刀を下げ、面を脱ぐ。頬に流れる汗が熱いのか、悔しさで熱いのか分からなかった。
悠眞は静かに会釈を返しただけだ。勝ち誇る様子も、慰める様子もない。ただそこに立ち尽くし、背を向け次の相手を待っている。
(普段大体五分なのに…今日は届かない…)
敗北の痛みと同時に、その背中が自分を追い抜いていくかのような焦燥に駆られた。
その夜。道場の熱気をまだ引きずったまま帰宅すると、食卓には煮物の香りが漂っていた。
母は織江が席に着くのを待っていたかのように、ふいに口を開いた。
「織江。女はね、いずれは家に入るものなんだよ」
味噌汁の湯気が立ちのぼる中、母の言葉は冷ややかに落ちた。
「うちだって龍城ほどじゃないにしろ、この辺りじゃ名家なんだから。そろそろ将来を考えなさいな」
「…なにを考えろっていうの」
箸を止めた織江の声は小さく震えていた。
母は淡々と続ける。
「そりゃあ龍城の坊っちゃんにそのまま見初められれば大儲けだろうけどね。女の子は剣なんか振り回してないで、もっと身の振り方を考えるべきだわ」
それは、わかっているでしょう?と言わんばかりに。
叱るでも嗜めるでもないような、まるでわかりきったことを確認するかのような口調だった。
「…っ」
胸が熱くなり、堪えきれずに声を張り上げた。
「悠眞は――そんな風にわたしを見たりしない!わたしだって剣道はそんな事のためにやってるんじゃないわ!」
「強情ねぇ。まったく」
母はため息をつき、箸を置いた。やはり怒るでもなく、呆れ返るでもなく。ただ突き放すような声色だった。
織江は俯いたまま拳を握りしめた。
道場での敗北が心を揺さぶっている。置いていかれるような不安と、同時に沸き上がるどうしようもないほどの憧れ。
そこに母の冷たい言葉が突き刺さり、胸の奥で重なっていく。
(…わたし、なんで剣道を続けてるんだろう。ううん、こんな事を悩む時点で心に隙があるんだ)
それでも彼女の問は心に残り続ける。それは積んできた努力を無に帰さないためか。母に認められたいからか。
それとも…。
悠眞の隣りでずっと競い合いたいからか。
答えの見えない問いが彼女の胸を締め付ける。
(あと1年とちょっとしたら、わたしは大学に行く。悠眞はまだ高校生…。その時、わたしは悠眞の隣りに居られるの?)




