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朱の山  作者: 晦ツルギ
第一幕

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第一章

 某県朱山市。人口およそ三十万。山と海に抱かれた地方都市である。

 中心街には百貨店や大型スーパーが並び、休日ともなればそこそこの人出で賑わう。だが一歩裏通りに入れば、シャッターを下ろしたままの商店が目立ち、かつての賑わいを語るのは色あせた看板だけだった。


 市の北にそびえる朱山は、町の象徴である。春は萌える若葉もどこか赤みを帯び、夏の濃緑にも錆色が混じる。秋には一面が真紅に染まり、冬枯れの枝先までが赤茶けて見えた。その理由を古くから人々は「討たれた龍の血が大地を染めた」と語り継いできた。


 戦後に行われた学術調査では、鉄分を多く含む土壌の影響や温泉脈の作用といった説が唱えられたが、どれも決定的ではない。誰も本腰を入れて調べようとはせず、結局「朱山はそういう山なのだ」と曖昧なまま受け入れられていた。


 この街に暮らす若者たちは、その曖昧さをどこかで自分たちの街に重ねていた。都会ほどの華やかさはなく、かといって田舎と呼ぶほど不便でもない。中途半端な町。中途半端な暮らし。高校を卒業すれば県外に進学したり就職したりする者も多く、残るのは家業や土地に縛られた者たちだった。


 朱山高校もまた、この町の縮図のような存在だった。普通科と進学科が併設され、学力も志向も幅広い。生徒数はそこそこ多く、部活動も盛んだが、校風は緩やかで、特筆すべき特色もない。けれど生徒たちにとっては、互いに青春を分かち合う場として十分な大きさと温度を備えていた。


 その教室の一つ。

 代山翔流しろやま かける は、自然と人の輪の中心にいた。


 背はすらりと高く、引き締まった体つきは運動部員でなくとも目を引いた。髪は短めで整えられているが、額にかかる黒髪の房が無造作に揺れる。くっきりとした目鼻立ちに、いつもどこか茶目っ気を帯びた笑みを浮かべていた。


 彼は誰にでも分け隔てなく声をかけ、友人を選ばなかった。クラスの輪に加わることを特に意識するわけでもない。ただ彼がいるだけで空気は自然と和らぎ、周囲の生徒たちが集まってくる。笑い声の中に自然といるのが翔流だった。


 そんな彼の視線が、ふと窓際に向けられる。

 そこに座る少女――春日陽菜かすが ひな は、教室の喧騒とは隔てられた静かな気配をまとっていた。


 長い黒髪を肩から流し、白い顔に感情を浮かべることなく、机の上の教科書に目を落としている。授業中も休み時間もほとんど口を開かず、まるで世界から隔絶されているかのような静けさを纏っていた。


 翔流は眉をひそめる。

 幼い頃、いつも笑顔を絶やさず、表情をころころ変えては小さな冒険ごとに目を輝かせていた少女。──記憶の中の陽菜と、いま目の前にいる無表情の同級生とが、どうしても結びつかない。


 ふと、入学式での再会を思い出す。

 桜の花びらがまだ枝に残る春の光の下、新入生たちが慌ただしく校門をくぐっていった。体育館には真新しい制服に身を包んだ生徒たちが整列し、式典特有の緊張とざわめきが入り混じっていた。


 翔流は、旧知の友である 龍城悠眞たつき はるま と並んで座っていた。二人は小学生の頃からの付き合いだが、中学は別々で、互いに違う日々を過ごしてきた。久しぶりの肩を並べる時間に、翔流は妙な安心を覚えていた。


 悠眞の目は、体育館の後方からゆっくりと歩いてくる一人の少女に向けられていた。長い黒髪、整った顔立ち。しかしその表情は硬く、感情を押し殺したかのように淡々としている。


「…翔流、あれ陽菜だろ」

 悠眞が低く呟いた。

 翔流は隣を振り返り、「え?」と聞き返す。悠眞は少女から視線を外さずに言った。


「春日陽菜だろ。……忘れたのか? 昔、俺たちとよく遊んでいただろう」


 翔流は一瞬、信じられない思いで少女を見つめた。確かに名前は耳に残っていた。けれど記憶にある彼女は、もっと笑顔が絶えず、無邪気に駆け回る子供だったはずだ。いま目の前にいるのは、無表情で孤立を望んでいるように見える少女。あまりに違っていて、翔流はすぐに結びつけることができなかった。


「……そう、なのか?」

 曖昧な返事をする翔流に、悠眞は口元だけで笑った。

「らしいな。けどあの仕草にあの瞳、間違いない。」


 あれから二ヶ月、同じクラスになった陽菜は、まるで周りからの接触を拒むように一人、無表情に過ごしている。

 当初は声をかけることもあったが、二言三言話すと会話が続かず、それまでになってしまっていた。


 だが、そういうものかもな。

 胸に生まれた違和感を押し込めるように、翔流は心の中でそう呟いた。子供の頃は無邪気でも、大人に近づくにつれて落ち着いていく──そういうものかもしれない。自分を納得させるように考え、翔流は再び友人たちの輪に戻った。


 窓際に残された陽菜は、小さな影のように俯いていた。


 一方その頃、校舎の端にある武道場では竹刀の音が響いていた。

 龍城悠眞 は、紺の道着に身を包み、冷静な眼差しで竹刀を構えている。切れ長の瞳に端正な顔立ち。声を荒げることのない落ち着いた所作は、同級生から一目置かれていた。


 進学科に籍を置き、学業にも優れる。だが本人にとっては「できるからやっている」だけのことだった。家名を背負う自覚も、将来の確固たる目標もまだない。ただ剣を振るうことで日常を満たしている。


 対するのは 石神織江いしがみ おりえ。白い剣道着と白袴に身を包み、副部長として凛とした立ち姿を見せる女性だ。面の中に見える意志の強い凛々しい瞳。やや小柄で細身ながら鍛えられた身体をしなやかに躍動させる。

 

 竹刀がぶつかり合うたび、道場に乾いた音が響き渡る。二人の気迫に、他の部員たちが思わず息を呑んだ。


 勝敗は僅差。だが最後に一本を奪ったのは悠眞だった。


「やるじゃない、はるくん」

 織江は竹刀を下ろし、口元に悔しさを隠す笑みを浮かべる。


 悠眞は汗を拭い、「ありがとう、織江」と短く返した。


 稽古を終えた二人は並んで道場を出る。部活仲間としての距離を保ちながらも、互いの言葉にはどこか柔らかな親しさが滲んでいた。悠眞にとって、そのひとときは何よりも心を落ち着ける時間だった。



 春日陽菜は授業が終わると静かに下校の支度を済ませ、帰路に就こうとする。

 荷物は少ない。同年代の他の子が持ち歩くような化粧も、髪留めや鏡もなく、授業に必要な最低限を鞄に丁寧に仕舞うと、彼女は席を立ち上がり、帰りの挨拶をする相手もなく、するりと教室を抜け出る。


 上履きから革靴へ履き替えると、グラウンド脇の道を静かに進んでいく。

 すでに部活動は行われており、活気のある声がグラウンドから響く。


 彼女の横を駆ける陸上部、遠くには野球部のバットが奏でる金属音。ホイッスルやヤジなども聞こえるなか、彼女の周りだけが時が止まったように静かだ。


 遠くで乾いた快音と共に、白球が高く舞い上がった。野球部員たちが「ファウル!」と声を上げ、空を追う。

 だが、視線がネットの支柱に遮られたその瞬間――それはちょうど通りかかった陽菜の頭上にボールが迫ったその瞬間だった。


 まるで見えないなにかに弾かれるように、打球は明後日の方向へ飛ばされていった。


 部員たちは「あれ?」「どこいった?」とざわついている。


「……っ」

 陽菜は小さく息を呑み、カバンを胸に抱きしめると、そのまま怯えるように小走りでグラウンドを離れていった。


 少し離れた校舎のそばから、辛そうに鞄を抱き、走る陽菜の姿を翔流が見つけた。


「……どうしたんだ、あいつ……?」


 怯えて逃げるように走る陽菜を、不思議そうに、心配そうに目で追い続けた。


「いじめや嫌がらせの噂もなかったのに……。」


 逡巡もつかのま。友人の呼びかけに意識を逸らすと、もう陽菜の姿は遠くの角に消えかかっていた。



 夕暮れの通学路を、悠眞と織江が並んで歩いていた。

 青葉の濃い並木が風に揺れ、初夏らしい湿り気を含んだ匂いが漂っている。部活帰りのざわめきも次第に遠ざかり、二人の影だけが細長く道に伸びていた。


 織江はふと、胸の奥に熱を覚える。

 中学の頃は、毎日のようにこうして帰っていたのに――高校に入ってからは、当たり前のことではなくなっていた。悠眞はまだ中学生だったから。たった二週間ばかりの年齢差。けれど、ぽつんと一人で歩く帰り道に、ほんの少し寂しさを感じていたのも事実だった。


「……ふふっ」

 思わず笑みがこぼれる。


「どうした?」

 隣で悠眞が首をかしげる。


「ううん、なんでもない」

 慌てて鞄を抱え直し、視線を逸らす。


 悠眞にとっては、きっとこれも“今”の一コマにすぎない。けれど織江には――一人きりだった帰り道に戻ってきた時間のように思えた。


 風が葉を揺らし、夕暮れの光が二人の間を優しく包み込んでいた。



 部員たちはフェンス際や植え込みを探し回り、草をかき分けながら声を上げていた。


「ったく、あんな高くファウル打ち上げるなよな……」

「ほんと迷惑だわ。どこ飛んでったんだよ」

「これだけ探して見つからないなら、もう諦めてもいいだろ」


 苛立ち混じりの声がぽつぽつと響き、やがて口数も減っていく。

 ただ草を踏む音と、夕暮れの風に混じる虫の声だけが続き――まるで白球そのものが消えてしまったかのようだった。


「――おーい、あったぞ!」


 ようやく一人が植え込みの奥から白いものを見つけ、駆け寄る。


 拾い上げられた白球は、しかしどこか異様な姿をしていた。縫い目は強い力でねじ切られたように歪み、革は不自然に裂けてめくれ上がっている。その奥から黒ずんだ芯が覗き、まるで中身ごと押し潰されたように歪んでいた。


「……おい、こんなの見たことあるか?」

「いや……普通に落ちただけじゃ、こうはならねえだろ」


 言葉を交わしながらも、部員の一人は額の汗を手の甲で拭った。蒸すような夕暮れの風が校庭を抜けていくが、それ以上に背筋をじわりと湿らせる不快なものがあった。


「誰かのいたずらにしても……気味悪すぎる」


 互いに顔を見合わせ、誰も近寄ろうとしない。理由を探そうとしても、どれも当てはまらなかった。


 夜の虫の声が響きはじめたグラウンドでは、もう誰も声を発しようとはしなかった。

 ただ、その足元に転がる白球だけが、不自然な痕をさらしたまま取り残されていた。



 夕陽はさらに西に傾き、朱山はただでさえ紅い姿を、なお深く染めていった。

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