第四章 その5
陽菜が駆け抜けていったあと、翔流は思わず追いかけようとした。
そのとき、廊下の角から慌てた足音が近づいてくる。
「翔流くん……!」
駆け寄ってきたのは、鴨宮美羽だった。息を切らせ、頬は不安で強張っている。
「今の……陽菜ちゃん、だよね。泣いてた……」
「ああ」翔流は短く答える。胸に重たいものが広がっていた。
美羽は唇を噛み、視線を伏せたまま震える声をこぼした。
「……昨日ね、見ちゃったの。穴部さんが……陽菜ちゃんの鞄を、外に投げるのを」
翔流の表情が固まる。
「……なんだって?」
「鞄を投げて……そのあと、何度も踏んで……」
そこまで言うと美羽の喉が詰まり、目に涙がにじむ。
「私……怖くて止められなかった。何も言えなかったの。でも……さっき泣きながら走っていく陽菜ちゃんを見て、きっと昨日のことがまだ続いてるんだって思って……」
言葉を吐き出した瞬間、美羽の肩が小さく震えた。
翔流は拳を固く握り、奥歯を噛みしめる。
「……そういうことか」
短く呟く声は低く、鋭さを帯びていた。
美羽は不安げに翔流を見つめる。
「ごめんね、私……昨日言えなくて。でも、翔流くんなら……」
「ありがとう、美羽」
翔流ははっきりと告げた。
その言葉に美羽は小さく頷き、涙を拭った。
翔流は深く息を吸い、陽菜の消えた方角へと視線を向ける。
昇降口の柱の影に、悠眞は立っていた。
ともに帰る織江を待つ彼の前を、俯いたまま陽菜が駆け抜けていく。
頬を濡らしたままの横顔が一瞬視界に入り、悠眞の目がわずかに揺れる。
「…陽菜?」
僅かばかり目で追うと、ちょうど姿を現した織江が声をかける。
「なに? あの子にご執心?」
軽口を叩く織江に、悠眞は眉をひそめて返す。
「バカ言え。それに――ほら」
言葉の先を示すと、昇降口の向こう、沈みかけた夕日の下を翔流が全力で駆け抜けていった。
普段はどこか余裕をまとった笑顔の彼が、今は眉を鋭く寄せ、肩で息をしながら必死に走っている。
地面を蹴るたびに砂埃が舞い、靴音が乾いた校庭に響き渡る。
その背中は、何かを必死に守ろうとする者のものだった。
悠眞は小さく息を吐いた。
「あいつなら間違いないだろ。……見たか? お前との試合でも飄々としてたあいつの、あんな顔」
織江は目を見開き、鬼気迫る表情で走り去る翔流を見送った。
「そうね……あの子、あんな顔するんだ。なんかなんでも余裕そうだったのに。本気になるなんてダサい、みたいな子かと思ってたよ」
「……あいつは、なんでも出来すぎて、色んなことに飽きてるのさ」
「へえ。よく知ってるのね?」
悠眞は一瞬言葉を切り、唇を歪めて自嘲気味に小さく笑った。
「似た者同士だから…かな」
夕暮れの光は力なく稜線に沈み、そして翔流の姿はすでに校門の向こうへと消えていた。




