第四章 その3
今日も今日とて、教室は文化祭準備のざわめきに包まれていた。
昨日よりも散らかった机の上には使いかけの絵の具や半端な布切れが散乱し、床には紙屑が点々と落ちている。
それでも生徒たちは疲れを見せず、むしろ昨日より熱気が増していた。
お化け屋敷に使う幽霊の衣装作り――それが今日の作業だったが、慣れない作業に難航する声が響く。
「うわっ、縫い目ガタガタ」
「おい、これ腕が通らねえぞ!」
「もう針に糸が入らん!」
あちこちから悲鳴にも似た声が飛び交い、笑い声が重なる。けれど出来上がった布は不格好で、どう見ても「怖い」より「みすぼらしい」に近かった。
翔流がひょいと一枚を広げ、肩をすくめる。
「こりゃ、幽霊っていうより雑巾だな」
周囲がどっと笑い、誰もが作業を投げ出しそうな雰囲気になる。
ふと、翔流が陽菜の方へ視線を向けた。
「そういえば、お前こういうの得意じゃなかったっけ?」
「えっ……わ、わたし?」
突然みんなの目が集まり、陽菜は慌てて視線を逸らした。
「家庭科のとき、裁縫めちゃくちゃ早かったろ。ほら、やってみろよ」
何気ない調子でそう促され、数人のクラスメイトも「そういえば」「見てみたい」と口々に乗っかる。
陽菜は小さく息をのみ、机の上の布と針を手に取った。指先が少し震えていたが、ひと針目を入れた瞬間、その動きは迷いなく流れ始める。
返し縫いで裂け目を丁寧に塞ぎ、袖口を三つ折りにして仕上げる。糸の通し方も滑らかで、布はみるみる形を成していった。
「……」
教室が静まり返った。さっきまでのざわめきが嘘のように止まり、誰もが陽菜の手元を凝視している。
やがて陽菜が針を置き、衣装を広げた。
「で、できました……」
白布はふわりと広がり、穴のあいた目の部分からのぞく闇が、不気味な存在感を漂わせている。
「うおーっ! 本物っぽい!」
「すげえ、ちゃんと幽霊に見える!」
「春日さん、めちゃくちゃ上手いじゃん!」
歓声と拍手がわき起こり、陽菜は思わず頬を赤らめた。
視線を浴びることは苦手なはずなのに――今は胸がほんのり誇らしく、温かかった。
翔流が出来上がった衣装を手に取り、軽く広げてみせる。
「ほら見ろ、やっぱり陽菜がいなきゃ駄目だったな。これなら絶対ウケるぞ」
その言葉に、陽菜の胸はじんわり熱を帯びる。
「すごーい、春日さん! 衣装班にスカウトすればよかったじゃん!」
「次もお願いしていい?」
「うん、あたしも裁縫やるけど、こんなに早くは無理!」
次々に飛び交う称賛に、陽菜は小さく「はい……」と応える。
――こんなふうに役に立てるなんて。
胸の奥がほんのり灯り、視界がにじむように明るく感じられた。
けれど教室の隅。窓際の席に腰掛けた穴部紗季だけは、笑っていなかった。
陽菜を囲む輪と、翔流の楽しげな笑顔。
それを見つめる紗季の唇はきゅっと結ばれ、沈黙の奥で感情が揺れていた。
――また。
――また彼と笑ってる。
昨日も今日も、ずっと隣にいるのは自分じゃない。
あの子は最初、ひとりで静かにしていたはずなのに。どうして翔流は、あんな子に優しくするの。
紗季の胸に、じわじわと黒い熱が広がっていった。
やがて日が暮れ、準備を切り上げた生徒たちは三々五々帰路についた。
教室には机が散らかり、衣装の布や段ボールが雑然と残っている。
陽菜は自分の鞄を探してきょろきょろと見回していた。
「……あれ? 机の横に置いてたのに」
少し困った顔で辺りを歩き回る。だが鞄は見当たらない。
窓際の夕闇が濃さを増す。風がカーテンを揺らし、日中の喧騒が嘘のように静まり返る。
陽菜は「おかしいなぁ……」と小さく呟き、机の下を覗き込み、ロッカーを開け閉めし、何度も同じ場所を探していた。
―その頃。
校舎の裏手の暗がり。
紗季は無言のまま、踏みつけていた鞄を窓の外に投げ落とした。
夕焼けの残光に一瞬だけ布地が浮かび、そのまま砂利の上に沈む。
彼女の表情には、笑みも怒りもなかった。
ただ冷たい無表情のまま、胸の奥のざらつきを必死に押し隠していた。
再び教室に戻った紗季は、何事もなかったかのように椅子に腰を下ろす。
その横で、陽菜はなおも「どこ置いたっけ……」と辺りを探し続けていた。
空が群青に沈み、教室の灯りだけが浮かび上がる。
陽菜の影は、その暗がりの中で揺れていた。




