第三幕 第一章 その6
夜が、白み始めていた。
辺りには燃え残った炭の匂いが漂う中、翔流は膝をつき、小太刀を握りしめていた。関本は地に倒れ、息をしている。だがその瞳は虚ろで、焦点を結んでいなかった。まるで、意思や感情をどこか遠くへ置いてきたかのように。表情もなく、ただ濁った目で虚空を見つめるだけだった。
風が、焦げ跡の間を通り抜ける。その音に重なるように、砂利を踏む足音がした。美音に連れられ、悠眞が姿を現す。外套の裾を翻し、翔流の隣に立つ。
「こっちが本丸か。面倒をかけたな」
「面倒なんてモンじゃねーぜ。憑いたばっかなのに強かったわ。
久しぶりだし、さすがに疲れたな」
悠眞は翔流に向き直ると、目を見据える。
「…何故、もっと早く斬らなかった」
低く、静かな声だった。叱責ではない。だが、確かな重みがあった。翔流は答えず、ただ地面に目を落とす。
「なんでも問答無用に斬り捨てるってのは性に合わねーんだよ。俺になら、こっちに戻せるやつも居るはずだろ?」
悠眞は視線を落とし、無言で関本の顔を見た。焦げた肌に、涙の跡が残っている。翔流の声が続く。
「心を戻せれば…帰って来れたんだぜ。こいつもさ」
「…お前は、文字通り不死身だからそう言えるのではないか?」
「どーだろな。でも、そう思って動かねぇと…意味ねーだろ」
沈黙。悠眞はゆっくりと息を吐いた。
「お前が帰れなくなったら、その時は他の誰かが死ぬ。風祭さんだって危なかった」
「わかっちゃいるんだよ。だからギリギリでなんとかしたろ?」
翔流の声はかすれていた。悠眞はふっと目を細め、わずかに微笑んだ。
「次は、そのギリギリを見誤るかもしれん。お前が倒れたら元も子もない。それは、忘れるな」
その声には、冷たさではなく、深い案じがあった。翔流は苦笑しながら頷く。
「…了解。気ぃつけるよ」
そのやり取りを少し離れたところで見ていた美音が、ふたりの方へ歩いてきた。
手には、いつの間にかコンビニのロゴが入った紙コップが三つぶら下がっている。
「はい。とりあえず、温かいものでも飲みましょ。徹夜明けに説教と自己嫌悪じゃ体に悪いわ」
「気が利くぅ。さすが美音ママ」
翔流が受け取りながら笑うと、美音は軽く睨むふりをした。
「苦労してあの重たいクラッチ蹴って麓まで買いに行ったのよ?もう少しありがたがってもいいんじゃないかしら?」
そう言いながら、美音は頬を膨らませ、そっぽを向く。
「焼け跡でのんびりってのも、考えものだが」
悠眞が呆れたように言うが、紙コップはしっかりと受け取っている。
「こういう時にこそ、一息つくのが大事なんです」
美音はそう言って、ふたりの横をすり抜けると、地面に横たわる関本の傍らにしゃがみ込んだ。
そっとコートを脱ぎ、その上半身にかける。
「…寒いでしょう。あとで救急車、呼びますからね」
返事はない。ただ、関本の喉がかすかに鳴ったように見えた。
美音はそれ以上は何も言わず、静かに立ち上がる。
「さて、と。続きは朝ごはんを食べてからにしましょ。人間、お腹が空いてるとろくな判断しないもの」
「俺、不死身だけど腹は減るからなぁ」
翔流が肩をすくめると、悠眞も小さく息を漏らした。
「俺も空腹だな。…だが、まずは帰って風呂に入れ。血の匂いがきつい」
「それは同感ね。翔流くん、背中真っ赤よ?」
美音が笑うと、翔流は思わず自分の服の裾をつまんで見下ろした。
「マジか。帰り道で職質されねーといいけど」
ささやかな笑いが、焼け跡の上に薄く漂った。
だが、その少し離れた場所で、関本の濁った瞳だけが、まだ燃え跡の方を見つめていた。
焼け跡に、つかの間の静寂が降りた。
その瞬間だった。
「翔流くんっ!」
背後から、美音の叫び声が響いた。翔流と悠眞が同時に振り返る。炎の跡――そこに、立ち上がろうとする関本の影があった。身体を支えきれず、ふらふらと震えている。その手が、倒れていたポリタンクに縋りつくように伸びた。
「やめろ!」翔流が走り出す。だが、間に合わない。乾いた破裂音とともに、油が散り、火の粉が舞い上がった。関本の身体が瞬く間に炎に包まれる。
「関本さんっ――!」
それでも翔流は駆け寄ろうとする。しかし、悠眞の手が彼の肩を掴んだ。力強く、けれど僅かに震えていた。
「行くな。…もう届かん」
翔流の身体が止まる。炎の向こうで、関本は動かなくなった。その顔は、どこか安らかだった。まるで、ようやく家族のもとへ帰れたかのように。
翔流は膝をつく。灰が風に舞い、頬を撫でた。小太刀が、手の中で重く冷えている。
「…あの夜と同じかよ。今度は、救えると思ったのにな」
その呟きは、燃え跡の静寂に溶けた。悠眞は何も言わない。ただ隣で立ち、同じ灰色の空を見上げていた。
やがて、山の端から光が差した。夜明けの風が吹き抜け、灰を遠くへ運んでいく。
その風に乗るように、美音の声が届いた。
「翔流くん」
振り向くことが出来ないまま、翔流はわずかに顎だけ動かす。
「いま香織ちゃんがいたら、きっとこう言うわ。
『翔流にぃに出来ないなら、誰にも無理ッス』って。わたしもね、そう思うの」
美音は少しだけ笑って、それからそっと声を落とした。
「…でも、あの人の顔、最後は安らいでいたわ。翔流くんが頑張ったから、よね」
翔流はようやく顔を上げる。目の奥の赤みを押し殺し、ゆっくりと頷いた。
小太刀の刀身に映った朝日は、夜明けというには心許なく、それでも確かに闇を薄くしていた。




