第三幕 第一章 その5
辺りは完全に炎に包まれていた。
夜風は熱気を巻き上げ、焦げた木の匂いが肺を刺す。
翔流は腕で口元を覆い、揺らめく火の向こうに人影を見据えた。
男は、倒れた鳥居の前に立ち尽くしていた。
肩越しに見えるその背中は、燃えさかる光の中で黒い影に染まっていた。
「…あんたが犯人か。なんだってこんなことしでかした?」
男は動かない。
炎の音に混じって、掠れた声が漏れた。
「俺は死人さ」
「へぇ。俺の知る限りじゃ、死人は話せないし、ましてや放火なんざ出来ねーと思うけどな」
「五月蝿い!」
「話せるんなら、こんなバカなことやる前に相談に来てくれりゃ良かったのに」
沈黙。男の肩がわずかに震えた。
翔流は一歩踏み出し、低く言葉を重ねる。
「咎について調べたんだろ?それなら、郷土資料館のことも調べがついてたんじゃないのか?
あそこはわざと行き当たるようにしてある。助けを求めりゃ、美音さんが話を聞いたはずだ」
「お前らには…、わからん」
「何故わからんと決めつける?」
翔流の声が低く響く。
「俺が何も失ってないとでも?大体なぁ、年長者の言うことは素直に聞くもんだ」
「ガキが何を…」
「ま、そりゃそーか。この見た目だもんなぁ。こういう時ホント損だよな…。
まぁ、壊そうってのはいいさ。人間らしい感情だと理解しよう。だが、なぜよそにまで放火した?カモフラージュのつもりか?」
男は顔を伏せ、かすかに唇を震わせる。
その瞳に、言葉では届かないほどの憎しみと悲しみが混じっていた。
「…もう話すことはない。こんなもの、全部焼いて壊してやるんだよ」
「焼いただけで壊れるって、なぜそう思う?そんなもんじゃ壊れやしないさ。人の手に触れやすくなって危険なだけだ」
「ふん、騙されんぞ!穢れは焼いて祓うものだと調べがついてるんだ!」
男は振り向き、背後にあった石の塚を蹴飛ばす。
塚はぐらりと傾き、重く倒れる音が炎の中に響いた。
「おい!やめろって!」
翔流の叫びを遮るように、男の体に黒い靄が纏わりつく。
空気が震え、地面の奥から、咎の脈動が響く。
熱が反転するように冷たくなり、炎で照らされていた男の姿が黒く染まっていく。
「おいおい、マジかよ…。
お前、それを壊したかったんじゃなかったのか?
お前が咎憑きになってどうすんだよ…!」
男の影から、黒い煙のような気配が立ち上る。
それはまるで形を持つ生き物のように、男の背中を這い上がり、彼の意識と重なっていった。
翔流は白鞘の柄に手を添えた。
鯉口を切り、わずかに光をのぞかせる。
「戻ってこい!おい!意識をしっかり保てよ!怒りでも悲しみでも、なんでもいいから!」
男の咆哮が夜を裂いた。
炎が渦を巻き、瓦礫が舞い上がる。
翔流は身をかがめ、黒い気配を斬り散らした。
風が生まれ、刃が空を走る。
「戻れって…!あんたは、まだ――!」
男の口から、かすかな声が漏れた。
「なんで……どうして……」
その声には、どうしようもない悔恨が滲んでいた。
翔流の胸に、共鳴する痛みが走る。
だが、そのわずかな“人の声”も、次の瞬間には意識なき咆哮にかき消された。
「ちょっ、どうする…?この場合…」
逡巡する翔流の脳裏に浮かんだのはかつて聞いたこの言葉だけだった。
(咎憑きの意識が戻らん場合、斬れば意識ごと――)
それはもう十年以上も昔。悠眞の父、継義に呼ばれ、悠眞の咎祓いに同行したときのことだった。
*
古い社の中で、ひとりの男が暴れ回っていた。
柱に頭を打ちつけ、畳を爪でえぐり、意味をなさない叫び声を上げ続ける。
「悠眞、下がっていろ」
継義の静かな声に、まだ学生だった悠眞が一歩退く。
その横で、翔流は拳を握りしめていた。
(わざわざ来たんだ。何かやれることはあるはずだろ)
そう思ったときには、もう体が勝手に動いていた。
振りかぶった腕の内側に滑り込み、足を払って重心を崩す。
そのまま腰を切り、肩口から畳に叩きつけるように倒すと、片腕と首をまとめて極めるように押さえ込んだ。
「おぉっと…おとなしくしろって!」
男の体が暴れ、肘がこめかみをかすめる。
それでも翔流は、腰と腕を絡めたまま離さなかった。
継義が、わずかに目を細める。
「ほう、よくも鍛えているな」
感心とも評価ともつかない声で呟き、しかしすぐに淡々と続けた。
「だが、そこまでが“普通の手段”の限界だろう」
いつの間にか、継義の手には白鞘の小太刀があった。
翔流が押さえ込む男を見下ろしながら、静かに言葉を落とす。
「咎憑きの意識が戻らん場合、斬れば意識ごと――いや、“心”ごとと言うべきだな。
ともに散ってしまうこともあるという。もっとも、俺も先代…つまり親父殿から聞いた話に過ぎんが」
「そんなの…どっちにしたってキツすぎだろ」
思わず漏らした翔流の声に、継義は口の端だけでわずかに笑った。
「だからこそ、お前のように“押さえ込んででも繋ぎ止めよう”とする奴が必要になる。
だが、その先へ踏み込むかどうかを決めるのは、刀を握る側だ。迷えば斬れん。だが、斬らねば救えん時もある。
この境目を見極めるのが、刀を振るう者の役目だ」
継義は刀を悠眞に渡す。悠眞はゆっくりと構えを取ると、息を吐く。
次の瞬間、白い刃がふっと走り、黒い靄が弾け飛ぶ。
その光景を、翔流は押さえ込んだ男のすぐ上で見ていた。
*
その時の白鞘の小太刀は、いま彼の手の中にある。
男の背後から伸びた黒い靄、朱の咎の力の奔流が翔流に迫る。
しかし翔流は、回避に重きをおかず、あくまでも対話を試みる。
翔流の頬が裂け、血が流れた。だがそれはすぐに塞がる。
「まだ話すことあるんだよ!聞けって!」
男が腕を振り回すたびに、空気ごと裂けたかのように翔流の衣服が裂け、血が噴き出す。しかし、流れ続けることなく傷口はみるみる塞がっていく。
「くそっ!このまま祓っても恐らく咎と共に心が砕けちまうか…。
少しでも意識や助けを求める気持ちがあれば、その心を掬い上げて切り離せるんだが――」
さらに身体のあちこちが裂ける。流れ出る血を気にせず、彼は歯を食いしばった。
傷は塞がる。だが、失った血液を取り戻すために、彼の体力の消費は激しくなる。
翔流はふっと息を吐くと、白鞘を抜く。
刃を振るうたびに、黒い靄が揺らぐ。刀身は空気を切り、靄を裂き、幾度も咎の腕根を斬り落とす。だが、靄は、裂けた箇所を縫い戻すように形を戻していく。
「くそっ!…これ以上はこっちが保たない」
意識を集中させる。脳裏に悠眞の構えが浮かぶ――。
「すまないが、一か八かだ…」
一閃。
燐光を伴い、刃が靄の中心を両断した。
黒い靄は、まるで編んだ糸がほどけるように崩れていく。
その瞬間、世界が別の色を帯びる。
炎の音が遠のく。翔流の視界に、男の意識が流れ込む。
木の引き戸が開く音。
小さなスニーカーが二足、整然と並ぶ玄関。
明るい声が「おかえり、あなた」と響き、台所の奥から湯気が立ちのぼる。
壁には、子どもの描いた家族の絵。笑顔が三つ並んでいる。
門柱の横に、真鍮の表札が光った。磨かれた跡が指先のぬくもりのように残っている。
――『関本』
刃の震えとともに、幻は砕けた。
現実が戻り、崩れ落ちる男の身体が音を立てて地に沈む。
翔流は肩で息をしながら、静かに刀を下ろした。
闇の中に広がるのは、血ではなく灰のような霧。咎の名残が、夜風にほどけていく。
男――関本は、生きていた。
ただ、虚ろな瞳がどこにも焦点を結ばず、唇が震えるだけだった。
咎を断ち切られた心は、かなりの損傷を負ったようだった。翔流は深く悔やむ――。
ここまで闇に沈んだ心は、恐らく咎と共に砕けてしまう。
もう少し余力があれば、その心を掬い上げ、切り離せたのに――。
翔流は拳を握り、唇を噛んだ。
「そうか…あんた、関本さんって言うのか…」
かすれた声が風に散る。
答えは返らない。ただ遠くで、誰かの笑い声の残響だけが耳の奥で揺れた。
幻の家の灯りが、まだ胸の奥に残っていた。
それが、救えなかった痛みとして翔流の中に沈んでいった。
――心の中にまで届く能力を持っているのに、時間も体力も足りない…。あとほんの少しが、届かなかった。
夜明け前の風が吹く。
焼け跡を通り抜けるその冷たさは、彼の頬を撫でるたびに現実を告げるようだった。
翔流は静かに目を伏せ、刀を鞘に納める。
灰が風に溶ける。
それでも、どこかで「おかえり」という声が、まだ響いていた。




