第三幕 第一章 その1
「ったく、この街はまだ5Gじゃねえのかよ」
ハンドルを握りながら、代山翔流は独りごちた。
スマホを助手席へ放ると、アクセルを踏み込む。
道は覚えている。朱山に帰る道を忘れるほど、彼は遠くへ行ったわけではない。
愛車のインプレッサの水平対向エンジンから吐き出される排気音が、ドロドロと坂道に響く。
舗装が新しくなり、看板が変わっても、吹き抜ける風の匂いだけは昔と同じだった。
どこか甘くて、遠く海と土の混ざった匂い。
「…いつぶりだっけか」
ルームミラーに映る自分は、十七年前と変わらない。
その事実から目を背けるかのように、無意識にミラーを起こしながら前方を見据えた。
フロントガラスの向こう、緑の山々の中にひとつだけ異質に紅葉に包まれるその山、朱山が見える。
夕陽に照らされ、山の稜線が深く朱に染まっていた。
変わらない色――いや、ずっと変われない色の山。
市街から山道に入ると少しばかりアクセルを踏み足し、コーナーを楽しむ。
いくつかのコーナーを抜けると、目的の古い建物が視界に現れた。
軽くブレーキを当てながら姿勢を作り、その勢いのまま隣接する駐車場の奥へクルマを滑らせた。
懐かしい白壁が視界に入る。
「朱山市郷土資料館」
古びた建物は、あの日のままだった。
「ここも、変わらないね」
愛車のドアを開けると、冷たい秋風が頬を撫でる。
坂道の下からは、微かに神社の鈴の音が聞こえた。
ガラス扉を押し開けると、軽やかなベルの音が響く。
翔流はちょっとしたイタズラ心で
「いらっしゃいましたよ。朱山市郷土資料館に」
と、ここの職員のいつもの挨拶を先に言う。
カウンターの向こうに立つ女性。
風祭美音。
彼女は、あの頃のままだった。
赤茶色の長い髪を後ろにゆるく編んでいる。
その髪の艶も、笑顔から覗く瞳の光も、笑ったときの口元も――記憶と寸分違わない。
「その車の五月蝿い音が聞こえたからすぐにわかった。驚かないわよ。翔流くん」
翔流は息を呑み、ただ見つめた。
「…美音さん。変わってないね」
「女性にそれ言うのはね、少し気をつけた方がいいわよ?」
彼女は微笑んで、軽く首を傾げた。
「“変わらないね”って言葉、褒め言葉にも聞こえるけど――
“まだ郷土資料館で独りものなのね”って意味にも取れるの」
「へ?…あぁ。いや、そんな風に聞こえた?」
「取れるの。特に、わたしみたいな“行き遅れ”にはね」
また首を傾げ、軽い冗談のように言いながら、美音は下唇に指をあてた。
その仕草には、時の流れを感じさせない静けさがあった。
翔流は笑って肩を竦める。
「でも、本当に変わってないよ。俺の方が驚くくらい」
「それは努力の賜物よ。
毎日ちゃんと食べて、よく寝て、よく笑う。
それだけで若さは保てるんだから」
「…美音さんが言うと、ホントに聞こえるな」
「本当よ?」
美音はくすりと笑った。
翔流は少し肩をほぐすようにして、館内を見回す。
古い展示棚の奥に、見慣れた風鈴が吊られているのが見える。
窓からの風が通るたび、ほとんど聞こえないほど小さな音を立てていた。
「香織ちゃんの結婚式、呼んだのにサボったでしょ?あの子、がっかりしてたよ」
美音が受付の椅子に腰を下ろしながら言う。
「今はもうお母さん。お子さん、小学生だって」
翔流は頭をかき、苦笑した。
「あー、悪いとは思ってるんだよ。…あの時はメキシコにいたんだ。でも、ちゃんと結婚祝いは贈ったぜ?」
「メキシコ?あれ、冗談じゃなかったの?」
美音が目を丸くする。
「本当に世界中の龍伝説を追ってたの?」
「そうさ。陽菜の手がかりは、ここに居るだけじゃわからなそうだったからね。出発の時にも言わなかった?」
翔流は窓の外に目をやった。
「龍って不思議だよな。西洋じゃ悪魔だけど、東洋じゃ神だったり。
だからさ、龍信仰があるところを追っていた。
でもあの時は空振りだったな。…ありゃ、龍ってより蛇だった。ケツァルなんとか」
「ケツァルコアトル?マヤ文明ではククルカンとも呼ばれていた神様ね」
美音は続ける。
「ああ、なるほどね。あれも風や雨を司っていたわね」
「さっすが美音さん。察しが早くて助かるよ」
翔流は笑いながら言う。
美音も肩をすくめて返した。
「朱山も伝承は風だものね。それで?手掛かりは無かったのかしら」
「あぁ、もうお手上げ。だから戻ってきた」
「そっかぁ、残念。行き詰まったから戻ったのね。てっきりこの“行き遅れ”を貰いに来てくれたのかと」
美音が上目遣いに翔流を見つめる。
翔流は思わず吹き出した。
「何言ってんのかな。俺のこと、一度だってそんな風に見てないくせに」
「バレバレね」
「バレバレですね」
「まったく…」
美音は頬杖をついて笑った。
「…それで、どうするの?また朱山を調べる?
今は悠眞くんが当主だから、協力してくれると思うわよ」
「掘ったりってか?…流石にそれはしないかな。そもそも、この辺りと心当たる国内はひと通り探し終えてるんだ」
翔流は腕を組み、外に目を向ける。
「とりあえず、今はここの山風に当たりに来たってことで」
美音は少し目を細めた。
「風は、ちゃんと覚えてるのね」
「ま、風については美音さんほど意識しちゃいないけどね。
…さて。挨拶も済んだし、帰って寝るよ」
「あら?早いのね。せっかく来たのにもう帰るの?」
美音は少し意外そうな顔をしたが、流れで時計を見て頷く。
「なるほど、閉館時間を気にしてくれてるのね」
「そ。あとは久々に自分のベッドでゆっくり眠れるなーってね」
「ふふっ。それもそうね。ゆっくり休んで来てね」
「あぁ。暫くはこの街に居るつもりだから、また近いうちに顔を出すさ」
その言葉に美音は微笑みを浮かべながら、わざとらしく人差し指を唇の下につけて考えてるふうなポーズをとる。
「そういえば、城内駅のそばに新しいケーキ屋さんが出来たらしいのよ」
「はいはい。次回は用意して来るよ」
翔流の方もやけに大袈裟に肩を竦めながらこたえた。2人のやり取りも、年月を感じさせず相変わらずだ。
「楽しみだなぁ。お茶の時間にお願いね?」
「わーったよ。んじゃ、ここらで消えるよ。また、えー。…明日辺りに」
そう告げると後ろ手にヒラヒラと手を振りながら資料館の扉に向かう。かつてトラブルで壊れたその扉を直した時のことを、ふと思い出しながら取っ手を握った。
カラン――。
ドアベルの乾いた金属音を連れて資料館を後にする。
外は既に夕闇に包まれ始めていた。
翔流は慣れた様子で駐車場の奥へと足を進め、銀灰色の相棒に火を入れる。
ドロドロとした排気音を響かせながら、満足そうに口元を緩ませると、ルームミラーを調整する。
腰でクラッチを繋ぎ、ほんの少しラフにアクセルを開けると、クルマは先ほど来た山道を下っていった。




