第四章 選択と魔法
季節が変わろうとしていた。
森の外れ、草原には紅い草花が揺れていた。冷たい風が吹き抜け、空は高く、澄んでいた。
その中心に、リュカの姿があった。
剣は持っていない。ただ、旅の外套と、首に吊るした木彫りの鳥。
腰の袋には、あの黒い花が一輪、丁寧に包まれている。
森を出てから、リュカは多くを語らなかった。
討伐隊が何も記憶していないことを確認した後、彼は騎士団を正式に離れた。
剣を返し、階級を返し、名を告げず、ひとりになった。
その日から、彼は旅を続けていた。
各地を歩き、薬草を集め、人々の手助けをして生きた。
“魔法”も、“戦い”も、もう使わなかった。
けれど、彼の周りにはなぜか静かな安心があった。
「……まだ、生きているのなら」
リュカは、丘の上に立ち、空に向かって呟いた。
「どこかで、同じ風を感じてくれているなら」
答えはない。けれど、風が一度だけ、やさしく吹いた。
*
村の広場で、小さな出来事があった。
泣いている子どもがいた。膝を擦りむいて、地面に座り込んでいる。
リュカは黙って近づき、ポケットから乾いた薬草を取り出した。傷口に軽く当て、包帯を巻く。
「もう大丈夫だ。痛くないだろ」
子どもは涙を拭きながら、小さくうなずいた。
その様子を見ていた村の女が、感心したように声をかける。
「……旅の方。お医者さまか何か?」
「いいえ。ただの――昔、誰かに世話になったことがあるだけです」
「へえ、優しい魔女か何かに?」
リュカは少し笑った。
「……ええ。そうかもしれません」
*
夜、焚火を前に、リュカは木を削っていた。
あのときと同じように。
小さな鳥の形を彫り、仕上げに指でくちばしをなぞる。
できあがったそれを、袋から取り出した黒い花の根元に添えて、そっと土に埋めた。
誰に見せるでもない。けれど、それは祈りだった。
いつか、どこかで。
その花が、再び咲くことを信じて。
ある夜のことだった。
リュカは、小さな村の外れにある宿の一室で、灯を落とし静かに目を閉じていた。
焚き火の音もなく、ただ風の音が壁越しに届いていた。
――夢を見ていた。
その夢の中で、彼は森にいた。
かつての日々のように、木々に囲まれ、柔らかな湿気に満ちた空気を吸っていた。
鳥の声。薬草の香り。火の揺らぎ。
そして、振り返るとそこに彼女がいた。
エラ。
変わらぬ黒髪。変わらぬ表情。
けれど、その目は少しだけ、疲れているようだった。
「まだ、旅をしてるの?」
その問いかけに、リュカは頷いた。
言葉は交わされない。ただ、頷きだけが答えだった。
「……なら、もう一度だけ、呼ぶわね」
エラがそう言った瞬間、風が渦を巻いた。
夢が崩れ、景色がねじれ、リュカの身体が引き戻されるように光のなかに吸い込まれ――
*
目を覚ますと、そこは見知らぬ森の中だった。
冷たい空気が頬を撫で、夜の草がしっとりと露に濡れている。
周囲には木々。空には、星がひとつ。
「……これは、夢じゃない」
リュカは立ち上がった。
これは、確かに“呼ばれた”のだ。
かつて、彼がこの森で目覚めたときと同じように。
首元の木彫りの鳥が、かすかに揺れている。
風のないはずの空気のなかで、それは確かに、誰かの“魔力”に共鳴していた。
――エラが生きている。
その確信が、胸の奥から湧き上がった。
彼女は、すべてを消した。討伐隊の記憶も、魔女としての痕跡も。
それでも、ただひとつだけ消さなかった。
想いの魔法。
それが、いま再び彼をここへ連れてきた。
*
森の奥へ進む。
足音が草を踏み、空気がわずかに揺れる。
そして――
彼は見つけた。
大きな樹の根元に、小さな灯りがあった。
かつての小屋とは違う、野営のような小さな火。そのそばに、誰かが座っている。
黒髪。薄布。
振り返ったその瞳に、確かに“生”があった。
「……おかえりなさい、リュカ」
火が静かに揺れていた。
薪がはぜ、草の上に映る影がわずかに動いた。
リュカとエラは、向かい合って座っていた。
言葉はなかった。
だが、互いに見ていた。失ったと思っていたものが、いま目の前にあるという現実を、呼吸の中で確かめるように。
先に口を開いたのは、エラだった。
「……もう会わないつもりだった」
声は掠れていたが、震えてはいなかった。
「忘却の魔法を使って、自分の存在を消して……それで終わりにするはずだった。誰の記憶にも残らず、ただ、いなくなるだけのはずだった」
リュカはゆっくりと頷いた。
「そうだな。でも、俺は忘れなかった」
「……そうね」
エラは少しだけ笑った。
その笑みには、あの日と変わらない静かな強さが宿っていた。
「木彫りの鳥。あれに、追憶の魔法を込めてた。“あの人”だけは、きっと呼べる気がして」
「その“あの人”は……俺か?」
「他に、誰がいるの」
ふたりの間に、火が小さく音を立てた。
*
「……あのとき、なぜ戻ってきたんだ」
リュカの問いに、エラはしばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「私はあのとき、何もかも終わらせたつもりだった。けれど、どうしても心の中に一つだけ、消せないものがあった」
「何を?」
「“ありがとう”って言ってくれた声。あの夜、小屋の入口に鳥を吊るしたとき。あなたが、私の名を呼んでくれたこと」
リュカの指が、無意識に首元の鳥飾りを触れる。
「その記憶は、魔法でも消せなかった」
エラは火を見つめながら続けた。
「だから……生きていたの。魔女としてじゃなく、“私”として。誰の記録にも残らず、ただ生きてみようとした。あなたがそうしてくれたように」
リュカは、かすかに笑った。
「皮肉なもんだな。“騎士”としての俺が、おまえを見つけ、“男”としての俺が……それを守りたくなった」
「それは、もう選んでしまったのよ」
「何を?」
「魔法じゃなく、人を」
火がふっと揺れた。
その灯りのなかで、エラはそっと立ち上がった。
夜露に濡れた草を踏みしめ、彼の前まで歩く。
「……ねえ、リュカ」
「なんだ」
「あなたがここに来たということは――もう、“選んだ”ってことよね」
リュカは立ち上がり、ゆっくりと彼女に向かってうなずいた。
「おまえと、生きる。それ以外に何を選べばいい?」
風が吹いた。
火が舞い上がり、ふたりの影がひとつに重なる。
朝が来た。
夜の森がうっすらと色づき、空に淡い光が差し込む。鳥が鳴き、草が揺れ、世界がまた始まる。
その始まりの中に、ふたりの姿があった。
リュカは、背に小さな荷を負い、エラは薬草の詰まった革袋を肩にかけていた。
小さな旅の準備だった。
「行き先は、まだ決めてないんだろ?」
リュカがそう訊くと、エラは「うん」と短く答えた。
「でも、いいの。もう“帰る場所”は必要ないから。行きたい場所を選べば、それが“居場所”になる」
「……それはずいぶん前向きな魔女だな」
「もう、魔女じゃないのかもしれない」
エラはそう言って笑った。
どこか肩の力が抜けていて、あの森の小屋で暮らしていた頃とは違う空気をまとっていた。
「あなたが言ってくれたから。“選んでいい”って」
「じゃあ今度は、俺がおまえに訊く番だな」
「何を?」
リュカは一歩、彼女の横に立って言った。
「――一緒に、生きないか」
エラは少しだけ黙っていた。
朝の光がその頬を照らし、まつげの影がかすかに揺れる。
そして、そっと手を差し出した。
「……うん、行こう」
ふたりの手が重なった。
指先の温もりが、確かにそこにあった。
*
それからのふたりは、物語にならない旅を始めた。
名もない村を巡り、薬を配り、ときどき手を貸し、時々ただ空を見上げて笑う。
どこにでもある、小さな暮らし。
けれど、ふたりにとってそれは、何より“強い魔法”だった。
*
ある村で、ひとりの子どもが訊いた。
「ねえ、そのお姉ちゃん……魔女なの?」
リュカは、答えに少し悩んでから、こう言った。
「魔女だったかもしれない。でも今は……違う」
「じゃあ、今は何?」
エラが微笑む。
「――“旅の人”よ。ね?」
「そうだな」
ふたりは顔を見合わせて、笑った。
*
森に咲いた黒い花は、今もひっそりと咲き続けている。
誰も知らない場所で、誰にも触れられず、風に揺れて。
それでも、誰かを思うその想いだけは、消えることなく、そこに咲いていた。