第三章 真実と裏切り
風が変わった。
森の上を吹き抜ける風に、かすかな金属の匂いが混じっていた。刃と油の香り。戦場を知る者には、すぐにわかる。
リュカは森の外れ、結界の境界に立っていた。空は曇り、鳥の声もない。
手のひらをかざせば、結界の気がわずかに揺れていた。見えない膜が波打ち、その向こう側に“何か”が近づいているのを告げていた。
「……来るか」
呟いた声に応えるものはなかった。だが、背後から足音が近づいた。振り返れば、薬籠を抱えたエラの姿があった。
「また境界を?」
「少し違和感があった。……今朝は風が湿ってる。嫌な予感がする」
エラは、しばらく風を感じていた。目を閉じ、指先で空気を撫でるようにして――ふと、息を止めた。
「……斥候の足跡が残ってた場所に、“追跡の呪”が仕掛けられてる」
「どういう意味だ?」
「私の魔力を“覚えられて”いる。つまり、あのとき追い返した者の一人が、私を“討つべき標”として認識した。追跡は正確になる」
エラの声は淡々としていたが、目は鋭く光っていた。
「……準備を始める。私は小屋を移すわ。あなたは、ここを離れた方がいい」
「……何?」
「ここから先は、“討伐”の世界よ。誰がどう見ても、あなたが私に手を貸していたことは明らかになる。だから、もう出ていって――」
「断る」
リュカは、即答した。
エラの瞳が揺れる。言葉を重ねる前に、彼が続けた。
「森の外に戻れば、俺は“元の任務”に戻る。おまえを討つために斥候として動いていた俺に」
「……なに、それ」
「黙っていた。おまえに言えば、この暮らしが終わると思った。俺の任務は、“北森の魔女”の存在を確認し、討伐対象と見なせる証を得ることだった。あの夜、傷を負って倒れたのも、そもそもその過程での襲撃だった」
リュカの目は揺れていなかった。まっすぐ、エラを見ていた。
「だが、おまえに出会って……変わった。斥候としての使命は消えた。だが、“騎士”として守る意志だけは残った」
エラの手が、かすかに震えた。
「最初から……裏切ってたってこと?」
「……そうだ」
「それで、今になって味方のふり?」
「違う。今はもう、“敵”が誰かを選ぶ立場にいない。ただ――俺が守りたいものを、ようやく見つけたってだけだ」
エラは唇を噛んだ。その目には、怒りも、悲しみも、ただひとつの問いが込められていた。
「……じゃあ、私が“あの魔女”だったら? 人を焼いた、村を壊した魔女だったら、それでもあなたは、今と同じことを言えるの?」
リュカは目を閉じた。
ほんの数秒の沈黙ののち、静かに答えた。
「おまえを見たあとじゃ、もうそんな問いは無意味だ」
その日の夕暮れ、森の奥に不自然な“光”が走った。
赤い閃光。雷鳴に似た衝撃。静かな森の空気が、一瞬で焦げたように熱を帯びる。
リュカは小屋の扉を蹴って外に出た。空の色が変わっている。西の空、木々の合間から、炎の尾が見えた。
「……結界が破られた」
エラが現れ、呟いた。
手には小さな杖。普段は使うことのないそれを、今はしっかりと握っている。
「正式な“魔女討伐術式”……王国騎士団のものね。封魔の光と、“爆裂符”の混成。軍用魔法だわ」
「つまり、本隊が来たってことか」
「最低でも十五人はいる。魔法師が三、残りは剣と弓。彼らの前では、私の魔法も万能じゃない。数分が限界……」
エラは早口で状況を読み、リュカの前に立つ。
「リュカ、あなたはここで死ぬ必要はない。もういいの。全部、わたしが――」
「俺はここに残る」
リュカの声は、冷たいほどに落ち着いていた。
「おまえを見捨てて戻ったところで、今さら“正義”のふりはできない。剣を抜いたのは、自分の意思だ」
「……なぜ。そこまでして、私に何があるの?」
エラは叫ぶように言った。
「私はただの魔女よ。森に隠れて、誰からも忘れられて、死んでいくはずだった。それなのに、なぜ――」
「“ただの魔女”が、俺の命を救った。“ただの魔女”が、毎朝湯を沸かし、火を分け合い、鳥の飾りを魔除けにしてくれた」
リュカは一歩、彼女の前に出た。
「そういう“日々”を俺は知らなかった。だから、俺にとっては――それが全部なんだ」
エラの口から、息がこぼれる。
魔力の気配が、じりじりと近づいてくる。森の木々を揺らし、土を震わせる。討伐隊はもう、すぐそこまで迫っていた。
*
「時間がないわ」
エラが言う。声に迷いはなかった。
「小屋は捨てる。結界はもう役に立たない。森の北側に“霧の谷”がある。そこに逃げて」
「おまえは?」
「私は“残る”。注意を引く。彼らの魔術眼は私に集中してる。姿を見せれば、そっちには目が向かない」
「それは、“囮”ってことか?」
「言い方はどうでもいい」
エラは、微かに笑った。
どこか諦めたような、どこか安堵したような――そんな笑みだった。
「リュカ。私はね、ずっと何のために生きてきたのか、わからなかった。でも今は……わかる気がする。誰かに想われるためじゃない。“誰かを想うため”に、生きていた」
リュカは唇を噛んだ。
その目には怒りが宿っていた。だがそれは、討伐隊に向けられたものではない。
自分に、何もできなかった自分に――。
「……馬鹿なことを言うな」
「言わせてよ。これが、私の最後の我が儘」
エラは、魔力を込めた印を空中に描いた。火の粉が舞い、草がざわめく。退路を開くための、瞬間転移の“扉”。
「リュカ。あなたが生きてくれることが、私の魔法」
リュカが言葉を返すより早く、足元が光に包まれた。
景色がぐにゃりと歪んだ瞬間、彼の視界から、エラの姿が消えた。
目が覚めたとき、空は青かった。
陽光が差し込み、草が揺れている。森のざわめきはなく、かわりに小川の音が聞こえていた。
リュカは、緩やかな傾斜の草原に転がっていた。身体は無傷。ただ、胸の奥に穴が開いたような感覚があった。
「……転移、か」
口の中が渇いていた。
起き上がり、辺りを見渡す。低木と、遠くに小さく揺れる花。東に山。南には白く霞む森――そこが、あの“北森”だ。
遠い。
戻れない距離ではない。だが、戻っても何も残っていないことを、彼は本能的に知っていた。
エラは、残った。
囮として。魔女として。魔力を感知させる標的として、自らを捧げた。
「……くそっ」
拳が地面を叩いた。乾いた草が舞い、指に小さな擦り傷ができた。
痛みはあった。だが、その痛みだけが唯一現実を教えていた。
エラの姿も声も、目の前にはない。
ただ、首元に――小さな感触があった。
手を伸ばすと、革紐が引っかかる。そこに吊るされていたのは、あの木彫りの鳥だった。
小屋の入口に吊るされていたはずのそれが、なぜか、リュカの首にかけられていた。
裏側に、何かが刻まれていた。
「生きて、残すこと。それが、わたしの魔法」
荒い文字だった。木が削れて、深く、にじむように。
リュカは、何も言えなかった。
言葉が出れば、声にならないものが溢れるとわかっていたから。
*
しばらくして、草の上に寝転んだまま、空を見上げた。
風が、雲を運んでいく。高く、どこまでも白く。
何かを守ろうとしたあの姿が、まだ瞼の裏に焼きついている。
あの森での日々が、消えていく気がした。
けれど――。
「……違う。忘れない」
リュカは、鳥の飾りを握りしめた。
「それを忘れたら、今度こそ、何も守れなくなる」
風が、強く吹いた。
彼は立ち上がり、南の森を見つめた。
そこには、もう何もないかもしれない。
だが、それでも。
歩かなければならない。
森が燃えていた。
木々のあいだから煙が上がり、空を曇らせる。討伐隊の魔術師が放った火は、土に刻まれた結界を引き裂き、結界の奥深くへと進行していた。
その最奥、小屋があった場所に、エラは立っていた。
黒い外套。杖を握り、風の中に一人。
顔は静かだった。怒りも悲しみも、もう表にはなかった。
「魔女、エラ。王国魔術管理局の名において告げる。これより貴殿を討伐対象とし、制圧を行う」
先頭に立つ男――魔術師長が宣言した。
兵たちが弓を構え、魔術師が呪符をかざす。
だがエラは、一歩も動かない。
「……戦う気はない」
その声は、静かに空気を揺らした。
「私に剣を向けるのは構わない。だが、私はもう、誰も傷つけたくない」
魔術師長が目を細める。
「……抵抗を放棄するという意味か?」
「そう。けれど、それだけじゃない」
エラは、杖をゆっくりと掲げた。
先端に、光の印が浮かぶ。
「私は、“忘却の魔法”を使う。私の記憶を、あなたたちの記憶から完全に消す。魔力の痕跡も、存在の記録も。あなたたちは、この森で“何も見なかった”」
兵士たちがざわめいた。魔術師たちの顔に緊張が走る。
「そんなことが……」
「できます。……そして、これが私の最後の魔法」
印が輝き、森の風が巻いた。
草が揺れ、空気が震える。
討伐隊の誰もが、その場から動けなかった。
それは“戦闘”ではなかった。
祈りに近い。
あるいは、“誰か”を想って行使される、たったひとつの魔法だった。
*
――その日の夜、討伐隊は何事もなかったかのように森を離れた。
報告書には、こう記された。
「異常なし。魔女の痕跡は確認されず。任務終了」
森の奥深く、かつて小屋があった場所には、草が茂り、小鳥のさえずりが戻っていた。
そして。
リュカは、そこに立っていた。
誰に導かれたのかもわからない。けれど、身体はここへ向かっていた。
風に揺れる草のなかで、ひとつだけ異なるものがある。
それは、黒い花だった。
見たこともない、深く黒い花弁。
その根元に、木片がひとつ落ちていた。
――翼を広げた、小鳥の彫刻。
リュカはそれを手に取り、ただ、空を見上げた。
雲の切れ間から、ひとすじの光が差していた。
この物語は、いよいよ終章――第四章「選択と魔法」へと入っていきます。
“魔女と契約した騎士”が、最後に選ぶもの。