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第二章 距離と矛盾

 雨の朝だった。


 灰色の雲が森の上を流れ、細かな雨粒が葉を濡らしていた。屋根を打つ音が、静かな小屋の中に規則正しく響く。だがその音は、居心地の悪いものではなかった。


 リュカは、軋む椅子に腰を下ろしていた。片手に木の柄の小刀、もう一方の手には、削りかけの木片。窓の外を見やりながら、無言で小さな飾りを彫っている。


 エラはというと、棚の上に薬草を並べ直していた。乾ききらなかった葉に布を被せ、湿気が籠らないように気を配る。その仕草はいつものように丁寧だった。


 しばらく沈黙が続いたのち、エラがふと呟いた。


「……騎士って、そういうの得意なの?」


 リュカが顔を上げる。


「何が?」


「木を削ったり、飾りを作ったり。手先が器用なのね」


 リュカは肩をすくめた。


「戦の待機時間が長いと、暇つぶしにやるやつがいた。俺は見るだけだったが……最近、指を動かすと落ち着く」


「ふうん」


 エラはそれ以上、何も言わなかった。だが、その横顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。


     *


 午後、雨が止むと、ふたりは森へ出た。


 湿った空気のなか、エラは腰の薬袋を下げ、リュカは小さな鉈を手にする。小屋の周囲、獣道の先に広がる薬草地――そこは魔力で保護された一帯だった。


「見て、これ。シルフェの根。乾かせば熱冷ましに使えるの」


 エラがしゃがみこみ、小さな白い根を指差す。リュカも隣に腰を落とし、まじまじと見つめた。


「……こんな細いもんが効くのか」


「ちゃんと量を測って煎じればね。逆に間違うと毒になるけど」


「魔女の知識ってのは……危ういもんだな」


「そう。生かすのも、殺すのも、紙一重。魔法も、同じ」


 その言葉には、どこか遠い響きがあった。リュカは黙って、根の一本を採り、布に包んで渡した。


「……思ってたより、普通だな」


「何が?」


「魔女ってのは、もっとこう……煙の中から現れて、人を石に変えるようなものかと」


「昔の絵本に出てくる魔女みたいな?」


 エラは笑う。


「確かにそういうのもいたかもしれない。でも私は、薬を煎じて、雨の音を聞いて、火を焚いて生きてる。ただそれだけ」


 その笑顔は、どこまでも自然だった。


 だが、リュカの胸には、微かな違和感が残っていた。

 ――この平穏は、あまりにも脆い。


 雨上がりの森に、小さな風が吹き抜けた。


 夜の森は静かだった。


 小屋の中では火が赤々と灯り、リュカとエラは向かい合って座っていた。夕食を終えたあと、言葉も少なく、ただ火の音だけがふたりを包む。


 リュカは、昼間に削り続けていた木彫りを手のひらにのせていた。指先ほどの大きさの、小さな鳥の飾り。翼を広げた姿はまだ荒削りだが、どこか、空へ舞おうとする意志がある。


「……渡そうと思ってた」


 そう言って、リュカはそれをエラに差し出した。


 エラは驚いたようにまばたきし、それからそっと両手で受け取る。


「……これ、私に?」


「魔除けのつもりだった。兵舎じゃ、無事を願う時によく彫る。たいしたもんじゃないが……おまえがここにいる以上、何かしら守りになるかと思ってな」


 エラはしばらく無言で小鳥を見つめていた。火の明かりに照らされて、木の色が柔らかく揺れる。


「ありがとう」


 小さな声だったが、確かな重みがあった。


「誰かに、こうして何かをもらうなんて……もう、何年もなかった」


 エラの指先が、慎重に彫刻のくちばしをなぞる。その目は、どこか懐かしさを映しているようだった。


     *


 その夜、リュカは久しぶりに夢を見た。


 ――兄が、笑っていた。


 兵舎の裏庭で、木刀を振るいながら、肩を揺らして笑っていた。強くて、優しくて、そして――たった一度の任務で、焼け焦げた。


 目が覚めたとき、額に汗が浮いていた。


 まだ夜は深く、焚火の残りがかすかに灯っている。小屋の空気は冷え、リュカはそっと毛布を引き寄せた。


 ――“あの魔女”が兄を殺した。


 それは事実であり、過去だった。だが同時に、エラは違う。今、ここにいる彼女は、あの魔女とは別の存在だった。


 人を癒やし、森に生き、たった一人で、それでも笑おうとしている。


 それが、リュカの心を乱していた。


     *


 朝になると、エラは鳥の飾りを紐で結び、小屋の入口に吊るしていた。


「結界の補助に使わせてもらう。魔力を流して、鳥に見張ってもらうように」


「……そんなことができるのか?」


「できるわよ。物に想いを込めるのは、魔女の得意分野。人がくれたものには、それだけ強い“力”が宿るの」


 リュカは黙って、それを見つめた。


 雨のあとの森はまた少し風が冷たくなっていて、鳥の彫刻は、風に揺れて小さくきしんだ。


 季節は、少しずつ巡っていた。


 森の木々はわずかに葉を落としはじめ、朝の空気に冷たさが混じるようになった。薪をくべる回数が増え、煮炊きの湯気が白く上がる。


 小屋の中では、リュカが包丁を持っていた。鍋の中には野菜と干した肉、エラが育てた香草を浮かべている。


「まさか、騎士が料理を覚えるとは思わなかった」


「戦地じゃ、手が空いた者が煮込みを担当する。文句を言うと腹が減るだけだった」


「騎士って、意外と庶民的」


「……仕方なく、だ」


 リュカはぼそりと答え、黙々と鍋の中をかき混ぜる。その後ろ姿を、エラは火の傍らから見つめていた。


 その眼差しは、もはや“客人”を向けるものではなかった。静かで、柔らかく、どこか寂しげで――それでも、確かに温もりが宿っていた。


「リュカ」


 名を呼ぶと、彼は振り向いた。


「どうした?」


「……そろそろ、契約を破棄してもいいかもしれない」


 その言葉に、リュカは手を止めた。


「なぜだ」


「森の気配は落ち着いてきた。斥候の再来もなかったし、結界も安定してる。私ひとりでも、守れるわ」


「本心か?」


 エラは少しだけ口元を動かした。笑みとも、違う表情だった。


「……あなたがここにいると、心が揺れる。守ってほしいのに、守られたくなくなる。頼ることが、怖くなる」


 言葉を重ねながら、エラは自分の膝に視線を落とした。指先が、布をつまんでいる。


「人を近くに置くと、私はまた誰かを失う。そういう予感がするの。あなたが優しいから、尚更」


 リュカは、しばらく何も言わなかった。


 鍋からは、香草の香りが立ちのぼっていた。静かな空気が、ふたりのあいだに広がる。


「……ならば、おれが出ていく。それでいい」


「それは、違う」


 エラが、顔を上げた。


「私が、そう望んでいると思う?」


 その目は、揺れていた。怯えと、それでも手放したくないという感情が、まじりあっていた。


「違う。でも、選んだのは私。あなたに、傷を重ねてほしくない」


 そのとき、リュカは、彼女が本当に“ひとり”だったことを知った。


 誰にも頼らず、誰にも頼れず、ただひとりで十年を生きた。それが、どれほど長く、冷たい時間だったかを想像することしかできなかった。


 だから、ただひとことだけを返した。


「俺は、まだここにいる」


 それは約束でも、命令でもなく――ただの“意志”だった。


     *


 その夜、エラは鳥の飾りを撫でながら、小さく言った。


「……リュカは、ずるいわ」


 飾りは風に揺れ、何も答えなかった。


 翌朝、小屋の周囲は濃い霧に包まれていた。


 秋が深まるにつれ、森は沈黙を増していく。獣の足音も、鳥の声も、まるで空気の奥に吸い込まれるようだった。


 エラは、手帳を開いていた。


 魔女の技術が綴られた、古い記録書。文字は細く、癖のある筆跡で並んでいる。彼女の師が遺したもので、毎朝少しずつ読み返すのが習慣になっていた。


「……封結の印、完成には“想念”が要るのね」


 エラが呟くと、近くで薪を積んでいたリュカが振り向く。


「想念?」


「気持ち、ってこと。想いを強く込めるほど、術は安定する。魔法ってのは、理屈より感情に支配されるものなの」


「感情、ね……」


 リュカは空を見上げた。霧は薄くなりかけていたが、まだ太陽は見えなかった。


「だったら、怒りで魔法を使う者もいるのか?」


「いるわ。怒りは、もっとも強くて荒々しい力。でも制御できなければ自分を壊す」


 その言葉に、リュカは何かを思い出すように黙り込んだ。


「……俺の兄を殺した魔女も、多分、そうだった。討伐命令が出た村で、最後は自分も灰になってた。敵味方関係なく焼き尽くしたらしい。……怒りで、何もかも」


 エラは静かに本を閉じた。


「私は、怒りでは魔法を使わない。……使えない。憎しみを力にすれば、いつか自分が“あの人たち”と同じになる」


「それでも、生きてる限り……戦わないとならないこともある」


「わかってる。でも、あなたにそれをさせたくない」


 エラは、目を伏せたまま言った。


「あなたが私のために剣を振るうたびに、私の中のどこかが冷えていくの。ああ、また傷をつけさせてしまったって。あなたを利用してるような気がして――」


「違う」


 リュカが、低く言った。


「それは、おまえが“誰かを思ってる”って証拠だ。利用なんかじゃない。俺が剣を握る理由は、もう自分で選んでる」


 エラは、ゆっくりと顔を上げた。


 目が、少し赤かった。


 けれど、そこには涙はなかった。ただ、自分を律しようとする強い意思が宿っていた。


「……じゃあ、もう少しだけ」


 小さな声で、彼女は言った。


「もう少しだけ、ここにいて」


 リュカは、頷いた。


     *


 霧が晴れるころ、ふたりはまた並んで、森の奥へと足を運んでいた。


 薬草を摘みながら、鳥のさえずりを聞きながら、何も言わずに。


 互いの気持ちが寄り添いはじめるその陰で――

 ひとつ、別の影が動き始めていた。


 西の砦から、ひとりの斥候が戻ってくる。


 手にした報告書には、こう記されていた。


「森の奥に、魔女の痕跡あり。協力者の存在も確認。討伐準備を要す」

次章、第三章「真実と裏切り」では、静かに築かれていた関係に初めて外の力が介入し、ふたりの“信頼”が試されることになります。

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