第一章 邂逅と契約
霧が降りていた。
湿った土と草の匂いが濃く、昼過ぎだというのに森は薄暗い。高く伸びた木々が空を覆い、光を拒むように枝を重ねていた。その森の奥、苔むした岩のそばで、ひとりの男が倒れていた。
男の名はリュカ。深手を負っていた。脇腹に刺さった傷が、皮の鎧を染め、地面へ血を滲ませている。すでに意識は朦朧としていた。
風が葉を揺らし、鳥の声が途絶えた。
カサ……と、足音。獣のものではない。軽やかで、人の気配を帯びている。リュカは薄く目を開けた。霞む視界のなか、緑のマントが揺れていた。
そこにいたのは、少女だった。
黒髪を編み込んだ細身の身体に、古びた旅装。腰には薬草を詰めた小さな革袋。年の頃は十七、八か――しかし、その瞳は深く、冷えていた。
「……騎士、ね」
少女はそう呟くと、しゃがみ込んで傷を覗き込んだ。冷たい手が、リュカの頬に触れる。
「助けて欲しいの?」
その問いに、返す言葉はなかった。声を出す力さえ残っていない。それでも、リュカは微かにうなずいた。
「ふうん」
少女は立ち上がると、草を踏み分けてどこかへ消えた。残されたのは静寂と、死の気配。だが――
間もなく、彼女は戻ってきた。手には薬壺と包帯。無言のまま、膝をつき、手際よく応急手当を始めた。
リュカは眠るように意識を落とした。
*
気がつくと、そこは小さな小屋の中だった。
木の梁と石造りの暖炉。壁には乾燥させた薬草が吊るされ、かすかに香っている。薄い布団の上、リュカは寝かされていた。
「目が覚めた?」
ふいに声がした。炉の前に、少女――魔女がいた。黒髪のまま、炎を見つめている。
「……ここは」
「私の家。森のなか、誰も来ない場所。都合がいいでしょう? 死にかけてたのに、まだ喋れるのは立派」
リュカは身を起こそうとして、呻いた。脇腹が痛む。布越しに、しっかりと包帯が巻かれているのがわかった。
彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。炎が瞳に映り、朱くきらめいた。
「あなたを助けたのは、取引のためよ」
「取引……?」
「命を助けた。だから、代価が必要。騎士であるあなたに、ひとつ――契約をしてもらうわ」
その言葉に、リュカは眉をひそめた。だが、体は動かず、声も張れない。
「契約といっても、魂を奪うとか、そういう類のものじゃないわ。ただ、一定の期間、この森に滞在してもらう。私を害する者が来たとき、剣を振るってくれるならそれでいい」
「それは……あんたが、魔女だからか」
少女は小さく笑った。焚火の火がはぜた。
「そうよ。ここらじゃ有名。だから人を寄せ付けない。けれど最近は、森の気配が変わったの。獣じゃない、“人の気”がする。だから、守ってほしいの」
「俺を……騎士を、雇うと?」
「雇うんじゃないわ。契約。あなたも、ただで助けられるのは嫌でしょう?」
リュカはしばらく黙っていた。だが、眠るように再び目を閉じると、低く、短く、答えた。
「……わかった」
少女はそれを聞いて、初めて微かに笑んだ。
契約は、口頭で交わされた。
リュカはまだ満足に歩けず、小屋の寝台からほとんど動けなかったが、彼女――魔女エラは、特に疑いもせず世話を続けていた。
朝は薬草を煎じ、昼は薄い粥を煮る。夜には焚火を囲み、森の静寂を背に眠る。
不思議な暮らしだった。命を助けられた者と、その助けた者が、こうして屋根を分けて生きている。だがそこに、言葉ほどの温かさはなかった。
「名前は?」
ある夜、リュカが問いかけた。
焚火がゆらゆらと揺れ、薪が小さくはぜる音だけが返る。彼女はそれに応えず、ただ火を見つめていた。
「……訊いちゃいけないのか?」
「いけなくはないけど。答える理由もないわ」
「それでも、俺は……ここにいる。守る契約も交わした。なら、せめて呼び名くらい」
その言葉に、エラは初めて肩をすくめた。
「……エラ。エラって呼ばれてた。たぶん、本当の名前は違うけど」
「たぶん?」
「子どもの頃に捨てられたの。村の外、薬草のそばに置かれてた。拾ってくれた魔女が、そう呼んだだけ。だからそれが本当かどうかは……もうわからない」
淡々とした語り口だった。悲しみや怒りはなく、ただ過去を述べるような口調。それが逆に、リュカの胸をざわつかせた。
「……そうか」
「あなたは? リュカって、名乗ったけど。家は? 帰る場所は?」
その問いに、リュカは答えを持たなかった。いや、答えたくなかった。
「……騎士だ。国の命で、北の砦から出て、討伐任務に出た。その帰りに……不意打ちを食らった」
「“獣”じゃないわね」
エラは火を見ながら、ぽつりと呟いた。
「あなたを襲ったのは、人間。――違う?」
リュカは沈黙した。やがて、火の音に紛れるように吐き捨てる。
「……裏切られただけだ」
それ以上は語らなかった。
*
数日が過ぎた。
リュカはゆっくりと歩けるまでに回復した。脇腹の傷はまだ痛んだが、体を動かすことに不自由はない。魔女の薬草と手当は確かだった。
そして、エラは変わらず日々をこなしていた。
薬草を摘みに森を歩き、きのこを干し、薬壺を並べる。人を避けて生きる生活。静かで、整っていて、それゆえに寂しげだった。
リュカはふと、彼女が背を向けているとき、彼女の手の震えに気づいた。森の風に揺れる草を摘む手が、ほんの僅かに。
「……誰かを、恐れてるのか?」
ある日、薪を割りながらそう尋ねた。
エラはその問いに、小さく笑った。
「恐れてるというより……予感があるの。森の空気が騒いでる。獣じゃない。鉄の匂い、火薬の香り、足音。きっと誰かが、私を探してる」
「なら、森を出ればいい」
「それはできない。森は、私の結界の外では力が薄れる。私には、ここしかないの」
「……だから俺を?」
「そう。あなたは“人の剣”だから。私の代わりに立ってくれる、唯一の盾。森のなかでなら、私の魔法とあなたの剣、釣り合うでしょ?」
魔女は、それを当然のことのように語った。命を助け、契約を結び、力を秤にかける。だが、リュカにはその言葉がひどく無防備なものに思えた。
「……誰かに、殺されるぞ」
「そうね」
エラは目を伏せる。
「でも、もう誰かを殺すよりは……それでいいの」
日々は静かに、淡々と流れていった。
朝、森の冷気のなかで目を覚まし、粥を煮て薬を飲む。昼は小屋の周辺をゆっくり歩き、木々の根元に薬草を見つければ、エラに渡した。夜には焚火を囲み、言葉少なに、だが互いの気配を確認するように座る。
リュカにとって、それは不思議な時間だった。任務に生き、剣に身を委ねてきた日々とはあまりに違う。だが、それを退屈とは思わなかった。
「おまえは、ずっとここで暮らしてきたのか?」
焚火を見つめる夜、ぽつりと口にすると、エラは一度まばたきしてから頷いた。
「ええ。魔女に拾われたのが十年前。彼女が死んでからは、一人」
「一人で……この森で」
「そうよ。人と関われば、争いが起きる。魔女は恐れられる存在。だから、孤独は選ぶもの。必要な犠牲なの」
その言葉に、リュカは何も言えなかった。
魔女が人から恐れられるのは、彼自身もよく知っていた。かつて兄が任務で討った“呪いの魔女”。その名は城の記録にすら残っていた。だが――目の前の少女は、どう見てもそんな存在には見えなかった。
薬を煎じ、獣の骨を拾い、古い書に目を通す日々。争うことより、癒すことに時間を使っている。彼女は確かに魔女だったが、それ以上に、人間だった。
「……なぜ、俺を助けた?」
リュカの問いに、エラは一瞬、顔を上げた。そして、いつもの調子で応える。
「契約のため」
「嘘だな」
エラは焚火の炎越しにリュカを見つめる。感情の薄い瞳が、かすかに揺れる。
「……死にそうな人間を見ると、つい手を出してしまうのよ。癖みたいなもの。魔女なのにね」
リュカはその言葉に、ふと口の端をゆるめた。
「……損な性分だな」
「よく言われる」
ふ、とエラもまた微笑んだ。だがそれは、すぐに消えた。焚火の薪が崩れ、火が一瞬だけ大きく舞い上がったとき、その表情はすでに沈んでいた。
「……私ね、昔、子どもを助けたことがあるの。熱で倒れてて、村の外に放り出されてた。薬を飲ませて、看病して、やっと元気になった。でもその子、戻ってきた村で“魔女にさらわれた”って言ったの」
リュカの表情がわずかに動いた。
「村の人たちは、私の小屋を探して、火をつけて……師匠の魔女は殺された。私は運良く逃げられたけど……それから、もう誰も助けていない」
語尾が小さく震えていた。けれどエラは涙を見せなかった。語りながら、ずっと火を見ていた。
「それでも、また助けてしまった。あなたを見て……何かが引っかかって。もしかしたら、あのときの罰がまだ終わってないのかも」
焚火の炎が、静かに揺れる。沈黙のなか、リュカは息を吸い、吐いた。
「……俺は、魔女に兄を殺された」
エラが、目を見開いた。
「討伐任務で出た先で、兄は魔術に焼かれて死んだ。残されたのは、炭になった腕だけだった。報せを聞いたとき、俺はただ剣を振るうしかなかった」
「……それで、私を?」
「最初は、そうだった」
リュカはゆっくりと、エラの瞳を見た。
「だが、おまえは……“あの魔女”じゃない」
それは、肯定ではなく――赦しだった。
翌朝、森は霧に包まれていた。
木々の間から差す光は白く濁り、足元の草も見えないほどだった。だが、霧の中には確かに“気配”があった。重い足音、湿った革の匂い、鉄の擦れる音――。
「……人が近づいてる」
薪を割っていたリュカが、顔を上げて呟く。刃を振るう手を止め、空気に耳を澄ませた。霧が森を包み、その向こうから確かに複数の気配が迫っている。
そのとき、小屋の扉がわずかに軋んだ。エラが中から顔を出す。
「感じた?」
「ああ。四人以上。軽装……斥候か、盗賊か」
「魔法の結界はまだ無傷。でも、長くは保てない。気配が強すぎる」
リュカは斧を脇に置き、剣の柄に手をかけた。だが、すぐにそれを振り払うように力を抜く。
「……俺が外に出よう。おまえは小屋に」
「でも、あなたの傷は――」
「動ける。守るって契約した。なら、これは俺の役目だ」
そう言って、リュカは霧の中へと歩を進めた。剣を抜き、音を消して森を抜けていく。その背には、確かな決意があった。
*
エラはひとり、小屋の前に立っていた。
霧の中、リュカの姿はもう見えない。それでも彼の足音は、どこか安心をくれる。ふと、胸元に手を当てる。心臓が、かすかに高鳴っていた。
魔女にとって、それは禁忌だった。
人を想うこと。人に心を傾けること。それは、いずれ災いを呼ぶと教えられてきた。けれど――今、その教えはあまりに遠かった。
ガサ、と草が鳴る。身を強張らせたエラの耳に、やがて足音が近づいてくる。
だがそれは、彼だった。
「……片づいた」
リュカが、剣を鞘に収めながら霧の中から姿を現す。外套に土と血が混じっていたが、傷はないようだった。
「追い返しただけだ。斥候だな。まだ戻って報告すれば、森に人が来る」
エラは黙ってうなずいた。
「……ありがとう」
その言葉は、これまでで一番静かで、そして一番確かな感情を帯びていた。
*
その夜、小屋の中はいつもと同じように火が灯されていた。だが、二人の間に流れる空気はわずかに変わっていた。
「……おまえ、嘘が下手だな」
「え?」
「助けたのは、契約のためじゃない。あのとき、おまえの目がそう言ってた」
エラは小さく笑う。
「そうね。たぶん……本当は、誰かに気づいてほしかったのかも」
「気づいて?」
「私が、まだ人間の心を持ってること。魔女である前に、“誰か”であることを……」
リュカは、火を見つめたまま言った。
「だったら、おまえの名は“エラ”でいい。“名乗られた”ものじゃなく、“選んだ”名前として」
エラは、言葉を失ったようにリュカを見た。長く、長く見つめたあと、そっと呟く。
「……ありがとう」
その声は、森の夜に溶けていった。契約という形で結ばれた二人の関係が、ようやくひとつの“始まり”を迎えた夜だった。