見知らぬ世界 其の2
疲労に足が止まった。もう、動けない。ただ、動かないと、逃げないと食い殺される。最後に力を振り絞り、手近な倒木の影に身を潜めた。隠れてやり過ごす以外の選択肢がなかった。
破裂しそうな鼓動。堪えても漏れる荒い吐息を必死で抑え、祈る。どうか見つかりませんように。
振動はドンドン近づき、止まった。生い茂る木の枝をかき分けるザワザワ音に、クンクンと匂いを嗅ぐ嫌な音が混じる。やがて音が消えると、代わりに吐き出しそうな酷い臭気が辺りに充満した。
鬼の口がすぐそばまで近づいている。獣の様な吐息が鳴る度に鼻を腐らせるレベルの臭いが吹き抜ける。
「ζ¶δΓΣΘΞ!!」
頭上からあの鬼らしき言葉が聞こえた。直後、視界が激しく揺れた。倒木と一緒に吹き飛ばされた。鬼の顔を見た。とても嬉しそうだった。餌を見つけた喜びに溢れる笑みに、もう駄目だと人生の最後を確信した。身体がダラリと弛緩し、酷い臭気に思考が鈍る。
食われるんだろうなと、抵抗を諦めた。あぁ、でも俺喰っても不味いぞ。ここ最近は安上がりなカップラーメンとかしか喰ってないし。あぁ、やっぱ食べんのナシになんねぇかな。最近は肉なんて喰ってないからさぁ。やっぱ駄目か。肉を食べてないんだから俺を食べないで、なんて理屈が喰う側に通じる――前に言葉通じねぇ。
「※※※!!※※※※!!」
(いたぞ!!こっちだ!!)
「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!!」
(ギガースがこんな場所まで近づいているとはッ!!)
「※※※※※※※※※※※※※※、※※※※※※※※※※※※※!!」
(妙な魔力反応を検知してみれば、一体何がどうなっているんだ!!)
「※※※※※※※、※※※※※※※※!!」
(考えるのは後だ、ではお願いします!!)
声がした。腐臭の合間から、鬼とは明らかに違う声が聞こえた。甲高い声の中に時折低い声が混ざっている。男と女の声だ。ただ、内容は相変わらず理解出来ない。
まぁ、驚きはしない。目の前にいる化け物を見るに、どう考えてもここは地球じゃない。なら、言葉なんて通じる訳がない。
もうどうにでもなれ、と成り行きに身を任せた。
ゴウッ
凄まじい突風が吹き抜けた。充満していた腐臭が一気に消え、寧ろ爽やかな香りさえ運んできた。直後、タンッと何かがぶつかる様な軽い音が幾つも重なった。
音を見上げて、唖然とした。地面や木々、果ては何もない空中を蹴りつけながら鬼へと強襲する何者かが移動する音だった。移動の跡に、火花の様な光が幾つも残る。さながら花火の様にとても幻想的なせいもあって、現実感がまるで湧かない。
湿った地面に腰を抜かす俺の頭上を、幾つもの影と音と光が通り過ぎた。その影の1つが急停止、俺を見下ろした。長身で細身の割に筋肉質で、褐色の肌に切れ目の入った短いスカートの下まで伸びる長い銀色の髪をした女。
女は俺を見つける何かを叫んだ。眼鏡の奥に見えた冷たい目線は、俺を見て驚いている。
「※※※※!!※※※※※※※※※※※※?」
(馬鹿なッ!!どうしてここに人間がいる?)
「※※※※?※※※※※……※※※※※※※※※※※?※※※※※※※※※※※※※※※※!?」
(嘘でしょ?だって協定……アイツ等まさか破ったの?じゃあさっきの異常な魔力反応って!?)
「※※※※※※。※※※※※※※※※※※。※※※※※※※※※※※※※※※!!※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」
(馬鹿言うなッ。あんなの人間業じゃない。ともかく今はギガースに集中しろ!!それにどうせ人間なら遠くまで逃げられない。)
銀髪は後ろから来た別の女と何か言葉を交わすと鬼の元へと向かた。見逃された?あるいは取るに足らない相手だと思われただけか。とにかく助かった、と声と音を見た。
謎の一団が、あの巨大な鬼と戦闘を始めた。全員が視認できない速度で鬼を翻弄し、攻撃を加えているようだ。
幻想的だった。何もない空中に模様が浮かび上り、火球が生まれ、周囲を凍結させるほどの氷の槍が生まれ、無数の見えない刃が生まれ、一斉に鬼に襲い掛かる。
鬼の動作もそこまで遅くはない。ただ、謎の一団と比較すれば遅すぎた。緩慢な攻撃は全て空を切り、隙を晒せば一団は更に連続攻撃で畳み掛ける。巨体が生む圧倒的な攻撃力も当たらなければ意味が無い。謎の一団はあっという間に鬼に片膝をつかせた。
誰かが空中に躍り出て、瞬く間に鬼の眼前へと移動した。さっき俺を見つけるや驚いた大柄な女だ。彼女は一足飛びで鬼の元へと跳躍するとくるりと一回転した。露出した太もも辺りに変な模様が浮かび上がり、発光した。女はそのまま鬼の顔面に回し蹴りを叩きこんだ。
「ΣΘΞ!?」
唖然とした。どう見てもただの蹴りなのに、鬼の巨体が十数メートル以上は吹き飛んだ。ドシン、と大きく地面を揺らした鬼は、そのまま動かなくなった。
ゾッとした。あんな化け物が全く相手になっていない。アレ何方が危険なのかわかったものじゃない。
と、その時点で俺は漸く自分の置かれた状況を正しく理解した。死に方が変わっただけで、死ぬ事に変わりはない。突き刺すように射抜く無数の視線が、俺を睨みつけていた。