末妹篇 其の2
心地よい疲れと共に深い眠りに入ってからどれ位の時間が経過しただろうか。ふと意識を取り戻せば、漸く慣れたベッドとは違う場所に寝そべっている事に気づいた。
周囲を見回せども一面真っ暗な空間。夢か?と思ったが、背中にフワフワとした何かの感触を感じた。多分、カーペットだ。俺が当面の住まいとして借りている来賓室のソレを踏みしめた感触と同じ感覚を背中に感じた。
が、分かるのはココまで。何時の間に連れてこられたのだろうか?もしや誘拐か、あるいは監禁されたのかとも考えたが、暗闇の中でもはっきりと分かる状態がその全てを否定した。
手足は自由に動いた。そもそも誘拐するならフラリと立ち寄った商業区とかもっと場所があった筈だし、手錠とか縄と言った物で拘束していないのも変な話だ。
一体何がどうなってこんな事になっているのか――と、そんな思考を切っ掛けに今までを振り返ってみれば、ここ最近の波乱万丈ぶりに落ち着いて考える余裕もなかった。
地球から名前も知らない星に飛ばされ、戻る目途が立つまで世話になる事になった。約一名から実害ほぼゼロのストーキングっぽい何かを受けているが、それ以外に何らの危険性も無く穏やかに過ごす今の暮らしは確かに幸せかも知れない。
――幸せ?本当にそうか?そもそも地球での思い出は転移される直前の記憶だけが綺麗に抜け落ちている事を除けば大抵覚えている。嫌な事だらけだったけど、今現在の生活と比較すれば大分マシな部類。なのに、どうして無条件に幸せなんて思ったんだ?
そもそも俺は一体何を忘れているんだ?その事実に気づき、現状よりも自分自身への不安が大きくなる。
コツコツ
と、足音。誰かが此方へと向かってくる。やがてギィ、と静かに扉が開く音が薄暗い部屋に木霊した。心なしか湿った冷たい空気の中に蠟燭の灯りが灯り、その中に誰かの姿が浮かび上がった。ボウッと浮かび上がった特徴的な曲線美が女性であることを強調している。
薄暗い部屋の中に静かに歩く足音が響き、ソレに合わせ蝋燭の頼りない揺らめきが部屋をほんの少しだけ照らす。頼りないオレンジの光が、俺の直ぐ傍までやって来た。灯りの中に女の姿が浮かび上がる。
ローズだ。
黒く長い髪を後ろで纏めたローズが無表情のまま俺の前までやって来ると、そのまま通り過ぎた。灯りの中に浮かび上がる彼女を目で追った。灯りの下に机が照らされた。手に持った灯りを置いた彼女は何もない真っ暗な空間に触れると力強く押し、開け放った。バンという音が部屋中に広がる。
窓があった。真っ暗な空間は開け放たれた窓から飛び込む光の中に溶けて消えた事で漸くこの辺りの状況が明らかになった。どうやらかなり大きな部屋のようだった。窓の傍には木製の机があり、その上には外から吹きつけた風で火が消えてしまった燭台が見えた。
日の光に照らされた事で漸く部屋全体の景観が明らかとなった。全体を見回せば、質素で殆ど何もない。机の他にはダブルサイズのベッドがあり、白い壁を見れば一面に――
「おはよう。気分はどうですか?」
窓から吹く風の中、ローズはにこやかに微笑んだ。穏やかな風に吹かれ、闇よりも黒い髪が揺れ動く。
彼女だ。俺をココに連れてきたのは間違いなく彼女だ。だけど、と壁を視界の端に捉える。余計に混乱した。質問に答える余裕が消える。
混乱。動揺。だが、そんな感情も次の瞬間には容易く塗り替えられた。気が付けば彼女の顔が目の前にあった。素直に綺麗だと思う。多分、地球は元よりこの世界でもこれ以上を探すのは無理だと思える美しい顔が間近で、俺を心配そうに見つめる。濡れそぼった唇から、熱の籠った吐息がかかる。が――
「お腹、空いていませんか?」
いや、そんな事を言いたいんじゃない。彼女、明らかにこの部屋の異様な光景から目を逸らして――じゃない、何も感じていない。直感した。俺がなんとなくそう感じていて、この都市の大半が信じて疑わない穏やかで優しいローズという女性の性格は表向きで、全員を偽っているのだと。
「あの、コレは何ですか?」
「コレって、具体的にどれです?」
やっぱり。彼女は壁一面に掛けられた物を何とも思っていない。
「ウフフ。良く残せていると思いませんか。特にコレ、苦労したんですよ。あぁ。後コレも、それからコレも……」
満面の笑顔で答えた彼女は、立ち上がると壁一面に飾られた額縁に視線を送る。恍惚。粘液の様なドロドロとした感情が籠った視線が壁に貼り付き、離れない。
壁一面の額縁は、まるで写真の様に一風景を切り取られている。問題は、その全てが俺の顔だという事。
以前、水晶を通して遠方の景色を見せてもらった事があった。目の前にあるコレは少なくともその手のモノとは違う。なら、以前シトリンが地球のカメラと同じ機能を魔術で再現できるかもとか何とか話をしていたアレか?まさか、もう再現に成功したのか?
彼女は俺に再び笑顔を見せた。満面の笑みはとても眩しく、美しく輝いていた。が、怖かった。さっきまでの笑顔と同じなのに、記憶の中に残る朗らかで優しい笑みが今は途轍もなく怖い。温かな風と光に照らされた部屋の中で――俺は、身震いしていた。




