見知らぬ世界 其の1
朝。豪奢なカーテンの隙間から暖かい日差しが射し込み、小鳥の囀りが聞こえる中、目を覚ますと何時もの如く目覚ましがわりの携帯を探して、暫くもすればあぁと気づく。ここは地球ではなくて、俺はもう会社に行かなくていいんだ、と。
意識を外に向ければ鳥の囀りに混じって時間を告げる鐘の音が聞こえた。部屋を見回せば豪華な来賓室の中には煌びやかに輝くシャンデリアに始まり、光沢を放つ燭台や花瓶や机や椅子などが目につく。何もかも俺の部屋にある筈がない物ばかり。そりゃそうだ、ココは慣れ親しんだアパートの一室とは違うんだから。
「ウフフ。どれもこれも高価なんですよ」
寝起きでボケっとした頭が未だ慣れない光景を呆然と見つめる中、耳元からそう呟く声が聞こえた。またか。俺がこの部屋を充てがわれてから1日とて変わることなく続く光景が今日もあった。眠る前に鍵を掛け、1人でベッドの中に潜り込んだのに……起きると毎回こうだ。
毛布をめくればソコには俺の隣で嬉しそうに添い寝する1人の女性。ネグリジェ1枚というボディラインを隠せない極めて薄着な格好は、彼女の抜群のプロポーションと白磁の肌と非常に相性が良く目のやり場に困る。と、何度も何度も説明したのにどれだけ注意しようが暖簾に腕押し。彼女は今日も今日とてその美しい顔を嬉しそうに綻ばせるばかりで人の話をまるで聞かない。
俺、なんでこんな目に合ってるんだっけ?そんなやるせない気持ちと共に、今から数日前――俺達が出会ったあの日の記憶が蘇った。
※※※
――気が付けば、視界に一面の緑が映る。森だ。それは分かった。ただ、何も思い出せない。俺はどうして森の中にいるんだ?何があって?それだけが、全く分からない。
昨日の事は覚えている。明日も仕事だ、と溜息と共に布団に潜った記憶はある。ただ、その先がない。自分が何者かは覚えているのに、どうしてこんな場所に居るのか、それだけが頭から綺麗さっぱり抜け落ちている。
両腕を目の前にかざしてみた。手だ。視線を少し落とした。足だ。身体をまじまじと見た。なんでかスーツに身を包んでいた。ところどころ擦り切れていたりと妙にボロボロなところを見るに、何かの事故に巻き込まれたのか?
もう一度周囲を見回した。無数の木々が見える。正確な種類までは分からないが太い幹と青々と繁る葉は間違いなく木だし、生えているのは雑草だ。周囲を見渡せば木々が作る影で薄暗く、石ころや砂利がある位で目立った物は何もない。
上空を見上げれば真っ白い雲に青い空が見えるが、そんな好天に反して森の空気は冷たく冷えている。大体の名前は分かるし、俺の認識ともあっている。と、足元の違和感に気付いた。視線を足の更に下に落とした。何か、妙な位に抉れていた。とても綺麗な円形で、よく見ると俺を中心にしているようだった。
身体が大きく身震した。一体、どうなってしまったのか?何が起きたのか?そもそもココは一体どこで、記憶を失う以前の俺は一体何をどうしてこんな場所に来たのか?幸か不幸かとても静かで、好きなだけ考えるには好条件。緩い風が吹きつけ木々と雑草がざわめく音と、後は鬱蒼と茂る森の奥深くから聞こえる鳥らしき何かの鳴き声以外は何も聞こえない。
手近な倒木に腰を下ろし、もう一度空を見上げた。相変わらず青い空と白い雲が見えて、そしてその中を翼を広げた鳥が悠々と飛ぶ姿が映ったが――
「でっか!?」
木々を掠めるように飛行する鳥の大きさは、一般的に鳥と呼べるサイズを大きく逸脱していた。下手すれば10メートル以上はあったぞアレ?
いやいや、そんな事がある訳が。夢か、幻か、現実か。自分の置かれた状況がより一層分からなくなった直後――
ズシン
大きな音と衝撃が足元から身体を揺さぶった。木々が揺れ動き、バサバサと鳥が空へと逃げ去る音が遠くから聞こえた。
空を見た。今度は燕とか雀位の大きさの鳥達が群れ成して飛び去る姿が見えた。何だ、やっぱり気のせいだったんじゃないか。と、安堵した矢先――
ズシン
またもや大きな音と衝撃が足元を伝った。しかも今度は一度や二度ではない。何度も、規則的に、リズミカルに響いた。
なんだか、巨大な何かが歩いているように感じた。いや、そんな筈はない。きっと、そう、工事。そうに違いないと頭が結論した。となれば、振動の先に人が居る可能性は高い。人が居るならば、少なくともこの場所が分かる。
言葉が通じなければ身振り手振りか、携帯の翻訳に頼れば良い。幸いにも、とジャケット内ポケットから取り出した携帯は問題なく動き、充電も申し分なかった。
記憶もなく訳の分からない場所に飛ばされた不安は消え、足が自然と振動の元へと進む。相変わらず自分の置かれた状況が全く分からないけど、ともかく今は進むしかない。
周囲をどれだけ見回しても食糧らしい物はなく、だとすればこの場に居続けても遠からず餓死するだけ。
一歩一歩進む足取りは少しずつ早くなり、やがて早歩きになり、最終的には走り出し、程なく振動の元を見て、果てしなく後悔した。立ち竦んでそれ以上動けなかったし、考える事なんてもっと出来なかった。
「§〈¶ΓΔδΦΘζ!!」
聞き慣れない叫び声。だが、そんな事ぁどうでも良い。視界に、小さなビル位はありそうな巨大な人間が映る。
手も足も口も鼻もあるが、本来2つの眼孔がある位置には大きな1つの目しかない。口からは幾つもの鋭い牙が生えていて、スキンヘッドの頭からは2本の角が生えてて、ダメ押しに体色はどう考えても自然発生しそうにない青色をしていた。鬼だ。バカでかい青鬼だ。
ソレは俺が最初に見上げた時に視界を通り過ぎたバカでかい鳥の羽を毟り、柔らかな胴体を咀嚼していた。ぐちゃぐちゃ。鬼の口が動く度に不快な音が聞こえる。やがて、栄養価の高い内臓を食い尽くした巨人は、もう興味ないとばかりに死骸を投げ捨て、俺を見た。
ギロリという擬音が聞こえてきそうだった。大きな目は俺を見つけるや瞳孔を大きく広げながら、ただジッと睨みつける。マズい。頭はそう判断してるが、だけど足が動かない。目の前に広がる荒唐無稽な景色を前に頭の処理能力が限界を超え、身体を動かそうとしてもできなかった。混乱している。
コレは何だ?映画の撮影か?違うよな、なら現実か?だけど、こんな生き物が地球に居るなんて有り得ない。人類未踏の地は深い海の底くらいだ。地上にこんな化け物がいたらニュースになっている。
地球じゃないのか?よく分からない理由で変な世界に飛ばされて、死ぬ。遥か上空から俺を見下ろす鬼が、口を大きく歪めた。笑いながら大きな手を伸ばし。
頭の中に、自分が死ぬ光景が浮かんだ。捕まればそのままあの大きな口の中に放り込まれる。巨大な顎は俺の身体なんて容易く噛み砕き、すり潰す。
次の瞬間、訳の分からない叫び声を上げながら森の奥へと走り出した。背後からズシン、ズシンと衝撃が足を掬う。
見なくとも、鬼が大地を踏みしめながら俺を追いかけている。音が、振動が徐々に大きくなる。追い付かれる。アレが少しずつ距離を詰めているのが振動とその周期を通して伝わる。死ぬ。他の何も分からないのに、死の予感だけがはっきりと理解出来た。