98話 現状確認
4月4日、曇り。気温はちょっと肌寒いくらい。
今日は、桐原のオフィスに行く日だ。
ホテル買収に関する、正式な説明を受けるためのミーティング。
まだ高校入学前の春休みなんだぞ、と思いながらスーツを着て電車に乗る。
通勤ラッシュを避けて時間をずらしても、スーツ姿の人が多くて、俺が浮いてるのか、溶け込んでるのかよくわからない。
受付を通されて会議室に着くと、既に資料がきっちり並んでいた。
大人たちの本気度がすごい。
「恭一くん、こちらが今回の担当になる安藤です」
そう紹介されたのは、スーツ姿の女性。
年齢は……ぱっと見で30代半ば?
「安藤です。よろしくお願いしますね」
爽やかな笑顔と、落ち着いた口調。
その瞬間、仕事できるタイプだと直感した。
「よろしくお願いします」
俺もきちんと頭を下げたけど、少し肩に力が入ってしまった。
後で聞いたら、彼女は三十四歳らしい。
――俺、前世が三十四歳で、この世界に来て一年経ってるから、実年齢で言えば同い年になるんだよな。
でも今の俺は十五歳。見た目も完全に子どもだ。
(子ども扱いされたくない……ちゃんとしないと)
そう思うと余計に背筋が伸びた。
「では、さっそくですが、今回の取得に関するご説明を……」
安藤さんは手元の資料を開きながら、静かに話し始めた。
「対象となるホテルは、現在ホクシン自動車が所有している“ホテル・グランベル笹塚 ”。資産評価額は約120億円です。そのうち60%――72億円相当の株式を、葛城さんに譲渡します」
「はい。聞いてます」
そのあとに続いたのは、残りの8億円を“現金で振り込み”って話だった。
つまり、80億のうち72億はホテル、残りの8億は現金。帳簿上もちゃんと整えてあるらしい。
「税務処理や譲渡益の対策については、すべて桐原側で負担します。恭一さんの提供した技術により株価が70%以上、上昇したことでその利益がカバーされているためです」
「……ありがとうございます」
正直、税金のことはよく分からない。
でも、桐原が“全部持つよ”と言ってくれるなら、そこは素直に甘えておく。
「ホテルは法人として独立しており、“笹塚ホテルマネジメント株式会社”という名称になっています。今回、恭一さんが株式の過半数を取得することで、実質的に経営の決定権を持つ立場になります」
このあたりの言葉は、ちゃんと聞きながらもどこか現実感がなかった。
だって――経営の決定権、だよ?
15歳のガキが、200室のホテルの方向性を決めるって、どう考えても漫画の設定みたいだ。
「はい、分かりました」
本当にやるんだな、俺……。
株式を取得するだけで何もしないって方向にも持っていけるけどね。
安藤さんは、説明を終えるとペンを置いて、目を細めた。
「最初は慣れないことも多いと思います。でも、私も全力でサポートしますから」
その後
安藤さんと一緒に、初めて“自分のホテル”を訪れた。
駅から歩いて10分ほど。
道沿いには古い商店もあれば、新しめのマンションも並んでる。
完全な都会でもなく、田舎でもない――ちょうど“生活感のある東京”って感じの街並み。
その奥に、そいつは現れた。
「……おお」
思わず声が漏れた。
14階建ての建物。
無駄に華美でもなく、でもちゃんと威厳があって、落ち着きがある。
外壁は淡いグレーで、玄関の上にはホテルのロゴが控えめに掲げられていた。
ガラス張りのエントランスからは、ロビーの照明がぼんやり見える。
「どうですか? 実物を見ると、やっぱり感じが違いますよね?」
「はい、立派なホテルですね」
スーツを着てここに立ってる俺は、どう見ても「保護者付きの社会見学の中学生」だった。
けど、これが俺の経営する場所なんだ――って実感が、じわじわ迫ってくる。
自動ドアが静かに開くと、柔らかな香りがふわりと鼻をくすぐった。
ロビーの床は光沢のある石材で、掃除が行き届いている。
チェックインカウンターの奥には、制服を着たフロントスタッフが2人。
その手前にはロビーチェアと低いテーブルが並んでいて、新聞を読む年配の男性や、観光マップを眺めている女性の姿も見える。
「こっちです。支配人がお待ちです」
案内されたのは、奥にある応接スペース。
ガラス戸の奥にいたのは、スーツをきっちり着た中年男性だった。
「お待ちしておりました。支配人の久世です」
そう言って、彼は深く一礼した。
40代後半くらいだろうか。目の奥に警戒と誠実さが同居してるような、不思議な印象を受ける。
「よろしくお願いします。……葛城恭一です」
正直、自己紹介する瞬間がいちばん緊張した。
「では、こちらへどうぞ。事務所の方で、まずは現状の説明から」
応接から移動したオフィスは、社員のデスクが並び、コピー機がうなり、コーヒーの香りが微かに漂う――まさに“現場”って感じの空気だった。
「これが、ホテルのここ数年の帳簿データです」
久世支配人が差し出した資料の束に、俺は軽くのけぞった。
多い……。
「こちら、ざっくりまとめた収支表と、各セクションごとの稼働状況になります。2000年の開業から現在に至るまでのデータは、別途USBにも入っております」
「ありがとうございます」
テーブルの上に広げられた書類の山を見て、思わず息をのむ。これ、全部読むのか……? とりあえず一番上の紙に目を通すと、横にいた安藤さんがさらっと補足を入れてくれる。
「売り上げは、昨年度でだいたい9億円ですね」
「……9億……ですか」
数字だけ見れば、すごそうな気がする。けど、正直、いいのか悪いのかさっぱり分からない。
いろいろな数字が一気に飛んできて、頭がついていかない。
安藤さんは少し微笑みながら、今度はゆっくりと繰り返してくれる。
「売上が約9億。そこから人件費や維持費を引いて、営業利益が1億という感じですね」
「なるほど……なんとなく分かりました」
言われた通り“極端に悪くはない”ってことなんだろう。たぶん。
「この数字だけ見ると安定してるように見えますが……今後は少し状況が変わる可能性があります」
言いながら安藤さんが次のページをめくる。そこには宴会場の利用率、法人契約の宿泊数、レストランの来客グラフが並んでいた。
データの山をめくりながら、俺はある点に気づいた。
「この“宴会場使用率”、ホクシン自動車って、やけに多く使ってないですか? 」
支配人の久世さんが頷く。
「ええ。宴会場も宿泊もレストランも、ホクシン自動車様のご利用が大きな柱でした。会議、研修、取引先の接待、パーティー……年に100件を超える利用があります」
「……それって、いまは?」
「今年の7月で、ホクシン自動車の本社機能は全部移転になります」
それは前にも聞いたはずの話だったけど、あらためて言われると、やっぱり気になる。
俺は手元の資料に目を落とす。
宴会場の利用履歴、法人向けの宿泊予約、レストランの売上グラフ――どれもこれも、「ホクシン」の名前がずらっと並んでいる。
……ってことは、このホテルの稼ぎ頭って、ほとんどホクシンだったんじゃ?
でも、そのホクシンがもうすぐいなくなるってことは――
「これって……赤字になるんじゃ?」
自分でも情けないくらいの声が出た。
でも、言わずにはいられなかった。
「いえ、即座に赤字転落ではありません。ただし、稼働率は確実に下がりますし、収益構造の見直しが必要になります」
久世さんの口調は落ち着いていたが、その中にピリッとした緊張が混じっていた。
「現在は稼働率が約70%前後を維持しています。しかし法人利用が激減すれば、それが60%を切る可能性もある」
「え、それって結構ヤバいやつですよね……」
「はい。営業利益は半減するでしょうし、下手すれば赤字に転落します」
ストレートな回答に、背筋がひやっとした。
赤字。
つまり、それは“儲からない”という話で――
「……配当って、出ないですよね?」
「当然です。黒字でなければ、株主に配当は出せません。仮に出しても、資本取り崩し配当になりますので、長くは続けられません」
なるほど、株を持ってる=お金がもらえる、じゃない。
それが今、やっと実感として分かってきた。
このままだと、俺の72億は、紙切れ同然になるかもしれない。
……え、マジで?
「観光向けにシフトするのが現実的です。ただし、笹塚という立地が……」
あ、そうだった。
笹塚駅。
京王線で新宿から1駅って聞いたときは「便利そう」って思った。
でも、観光客目線で見たら――別に“笹塚に泊まりたい”理由ってない。
観光なら、浅草とか新宿とか上野とか、もっと分かりやすい場所が山ほどある。
というか、関東圏以外の人って笹塚って名前も場所も知らないんじゃ……
「観光客、来ますかね……?」
「近年、外国人観光客は少しずつ増えていました。ただ、空港からのアクセスや知名度という点では、ご指摘の通り不利です」
「……これ、けっこう本気で難題ですね」
……やばい。思ってた以上に、本気でヤバいやつだ。
表面上は冷静を装ってるけど、心臓の音がうるさすぎて耳が痛い。
これ、買ったの失敗では??
俺が知ってるIT系のアメリカ株か、日本の有名企業の株買ってた方が良かったのでは??
いや、そんな卑怯なことはしないって決めたところだ。
てか牧原さん俺にそんなこと何も言わなかったよな??
彼は技術専門で知らなかったのか??
安藤さんや資産部は買うって言われたから、用意しただけ??
誰も気づいてなかったが、報連相の不備でこんなことになってる。
これやばいんじゃないか……




