95話 プロローグ
八王子から京王線で40分。
笹塚って、思ってたより静かな街だ。
改札を抜けると、チェーンのカフェとパチンコ屋、その隣に薬局。通勤ラッシュの時間はとっくに過ぎてるけど、人の流れはそこそこある。
みんなピリピリしてなくて、なんというか、落ち着いてる。新宿とはぜんぜん空気が違う。
駅までの人通りを確認してながら歩き出す。
ホテルまでは徒歩10分くらいだ。
……真夏の直前、日差しがもう完全に“夏仕様”だった。
温暖化前とはいえ、 7月下旬の昼前の今頃は28℃くらいにはなる。
首元に汗がじわり。白シャツの襟を指で引っぱって、少し風を通してみる。
……この手の動作も、前の人生で何度もスーツを着たときの癖だ。
住宅街を抜けて、細い道に入る。信号をひとつ渡ると……見えてきた。
14階建ての、ちょっと大きめの建物。
派手じゃないけど、無機質すぎるわけでもない。グレーの外壁に、品のいい濃紺の庇。
入り口のガラスはきれいに磨かれていて、反射で自分の姿がちょっとだけ映った。
ここが――ホテル・グランベル笹塚。
建てられたのは2000年らしいから、まだ築6年。新しい部類に入るはずだ。
……でも、俺が向かうのは、正面玄関じゃない。
ぐるっと脇道を回って、建物の裏手に出る。搬入口のそばに、ひとつだけ目立たないドアがあった。
〈STAFF ONLY〉――スタッフ専用の通用口だ。
ドアに手をかけた、そのとき――カチャリ。
中から音がして、扉がゆっくり開いた。
「あ、こんにちは」
「……ああ、君だったか。どうぞ」
中から出てきたのは、グレーの制服を着た警備スタッフの人。俺の顔を見るなり、すぐに通してくれた。
何か言われるかと思ったけど、それ以上何も聞かれなかった。……顔を覚えられてたのか、それとも何か手配されてたのか。どっちにしても、ちょっとホッとする。
中に入ると、空気が一気にひんやりした。
廊下の照明は蛍光灯。白い壁に、グレーの床。ホテルの“表”と違って、こっちはまるっきり実用本位の空間だ。
人の気配はあんまりない。奥の方で誰かが台車を押してる音が、微かに聞こえるくらい。
廊下をまっすぐ進んでいくと、掃除用のワゴンが壁際に置かれてて、その隣には使用済みのシーツやタオルを詰めた袋がいくつも積まれてた。
さらにその先には、段ボール箱がいくつか置かれていて、配送伝票が貼られている。
表から見えるホテルって、綺麗なロビーとかレストランとか、そういうところばっかりだけど……
こういうバックヤードって、まさに“ホテルの地肌”って感じがする。
業務用エレベーターの前を通りすぎると、案内図の掲示板が見えてきた。
「事務所 →」の矢印をたどって、曲がり角を右に折れる。
見慣れない制服姿のスタッフがひとり、伝票を抱えて歩いてくるのとすれ違った。ちょっと不思議そうな顔をされる。そりゃそうか。15歳の見るからに学生がひとりでバックヤードうろついてたら、普通怪しいよな。
でも、今のところは何も言われない。
やがて、奥に「営業課」とプレートが貼られた扉が見えてきた。
軽く深呼吸してから、ノックを二回。
このホテルに来たときは、まずここに顔を出すよう言われている。
コン、コン。
「どうぞー」
中から聞こえた声に返事をして、ドアを開ける。
「失礼します」
室内は、想像してたより広くて、少し雑然としてた。
電話対応中の若い男性スタッフがひとり。帳簿を開いて何か書き込んでる女性がひとり。
他にも、スーツ姿の人たちが3人ほど、それぞれのデスクで作業している。
一瞬、部屋の空気が止まったような気がした。
でも、すぐに視線は元に戻って、それぞれの仕事に戻っていく。
「いらっしゃいましたね」
一人の男性スタッフが立ち上がって、俺の方へ歩いてきた。
「はい、お疲れ様です」
「……少々お待ちください。すぐ支配人をお呼びします」
その男性が内線で支配人を呼んでいる。
俺は何も言わず、入り口脇の空いた椅子に腰を下ろす。
若い女性スタッフがちらりとこっちを見て、すぐに目をそらした。あからさまに「誰この子?」って顔してたけど、直接周りには聞かないらしい。
他の数人は、俺のことを知っているようで何も言わずに業務を行っている。
数分もしないうちに、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
やってきたのは、いつものスーツ姿の男性。背筋はピンと伸びていて、髪もきちんと整えてある。
胸元の名札には「支配人:久世」と書かれている。
あいかわらず、“ホテルマン”って雰囲気の人だ。
「――お待ちしておりました。本日もよろしくお願いいたします 」
そう言って、彼は深く頭を下げた。
え、って思うくらい低く、丁寧な一礼だった。
「こんにちは、こちらこそ今日もよろしくお願いします。」
「いえいえ、ようこそお越しくださいました、”オーナー”」
その瞬間、事務所の空気がピタリと止まった。
オーナー、って言葉。
それを聞いて、周囲のスタッフたちの表情が一斉に動く。
驚きとか、困惑とか、ちょっとした動揺とか。全部が無言のまま、でもはっきりと伝わってきた。
俺はというと、何も言わず、軽く会釈だけ返した。
内心ではドキドキしてたけど、それを表に出すわけにはいかない。こういうときって、やっぱり堂々としてるのがいい。
「会議室へどうぞ」
久世さんはそう言って、俺の前に立ったまま待ってくれる。
俺が席を立つと、先だって歩きながら案内を始めた。
案内されたのは、窓際の小さな会議室だった。
外の光がレース越しに差し込んでいて、テーブルにはシンプルなグラスとミネラルウォーターが置かれていた。
俺がソファに腰を下ろすと、久世さんも向かいの席にゆっくり座った。
「まずは、現状のご報告を」
そう前置きして、彼はファイルを開いた。
「現在の稼働率は、およそ64%前後。前年同月比ではマイナス3ポイントです。
特に法人利用――ホクシン自動車関連のお客様が、今春を境に徐々に減少傾向にあります」
知ってた。
その為に俺らは対策を頑張っているんだ。
「本社機能の完全移転が、9月を予定しております。これに伴い、会議利用、宿泊、宴会利用すべてで落ち込みが予想されます」
「宴会って、あの地下の会場ですか?」
「はい。これまでは毎月定例で、接待用の会食や表彰式などが行われておりましたが……先月はゼロ件でした」
地味にダメージでかいな、それ。
久世さんの表情はあくまで冷静だけど、その声には少しだけ焦りがにじんでる。
「逆に、少しずつ新しい層のお客様も増え始めています」
「……なるほど、改善の効果が出てきてるんですね」
「ええ。特に、今月に入ってからは伸びも多くなっております」
その言葉に、俺は思わず口元が緩んだ。
うん、やっぱり効果あったんだ。
「はは……まあ、やってみるもんですよね」
俺が軽く笑うと、久世さんは目を細めて、少しだけ頬を緩めた。
「……おっしゃる通りです」
* * *
久世支配人と別れたあと、俺は一人で館内を少し歩いてみた。
客室フロアはまた今度にして、まずは1階のロビーへと行く。
エレベーターのドアが開いた瞬間、空気がふわっと変わった。
照明はほどよく柔らかく、天井は高くて、ソファがいくつも並んでる。
観葉植物の配置、カウンター奥の壁紙、磨かれた床。
派手じゃないけど、落ち着いた雰囲気だ。
広さはまずまず。音も静か。
けど、ソファには誰も座っていなかった。
人の気配がないと、どうしても寂しく見える。
これはつまり、今の稼働率を表してるんだろうな。
……静かなロビーに、かすかに自動音声が混じっていた。
手近な棚に置かれた観光案内パンフレットを一枚手に取りながら、なんとなくロビーを一周する。
何か、変えられるだろうか。
――いや、変えなきゃ意味がない。そんなことを思っていたそのとき。
ポケットの中で、ケータイがぶるっと震えた。
俺は立ち止まり、片手で取り出してディスプレイを見る。
【From:澪】
本文:今笹塚? 終わったら一緒に帰ろー
よし、澪と帰りに駅前のそば屋にでも寄って帰るか。
あそこ旨いからな。
俺はケータイのボタンを押して、短く返信を打った。
「了解。あとでな」
送信ボタンを押すと、画面がすぐに待ち受けに戻る。
どこか懐かしい感じのある、少し古い液晶。
仕事と日常が、じわっと重なるような、そんな 感覚。
もしかしたら――このホテルの中で、俺の“普通”も少しずつ変わっていくのかもしれない。
ほんの少しだけ、肩の力を抜いて、もう一度ロビーを見渡した。
――さて。動くとするか。
第三部が始まりました。
このプロローグは、第3部の中の時系列では中間くらいです。(プロローグは7月、1話は同年3月)
次回が、第三部14章の1話目が始まります。
第三部のあらすじも明日公開します。
追伸、第二部のの最終話は8/7に投稿しました。ちょうど同じ日にopenAIからChatGPT5のリリースのアナウンスが出されました。奇跡ですね。




