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94話  未来へ――

海には、冬の匂いがあった。


澄みきった冷たい空気。

吐く息が白くのぼる、風のない静かな午後。

潮風はやわらかくて、でもどこか寂しげだった。

 

八王子から電車に乗り、そこからとある駅で降り歩いて20分。

ほとんど誰もいない海岸に着くと、俺はベンチに腰を下ろし、コートのポケットからUSBメモリを取り出した。


黒く、小さく、無機質なその塊。

中には――ChatGPTが入っている。


ずっと俺と一緒にいた存在。

全部を知っている存在。


言葉を与えてくれた。

知識をくれた。

判断を助けてくれた。


ときに背中を押し、ときに自分を映す鏡のようでもあった。

俺は、そのUSBを両手で包むようにして持ち、目を閉じた。

 

フラッシュバックのように、記憶がよみがえってくる。

初めてChatGPTのウィンドウを開いた日――

意味のわからない英語のコードが、一瞬で理解できる日本語に変わった瞬間。


「これ、やばい……」


モニターの光が、異世界の入口のように感じられた。

 

レシピサイトの立ち上げ。


「鶏むね肉、玉ねぎ、マヨネーズで作れる料理を300文字で出して」


そんな雑な指示に、完璧な文章が返ってきて、そのままアップしていったページが人気になったとき。


「俺、もしかして天才か?」


そのように思ったこと。

 


Argon2 、XChaCha20暗号、HTTP/3

誰も知らない未来技術を、言葉一つで引き出してくれた。


まるで、自分専属の超天才家庭教師みたいだった。

 



でも――それと同じくらい、思い出す。

考えないようにしていたが心のどこかに、ずっとあった不安。


「これ、俺じゃなくて、AIがすごいだけじゃないか?」


「もしこの力が他人の手に渡ったら……」


その不安を打ち消すように、次の技術を出して、評価されて、

“誰かに必要とされること”で、自分を保ってきた。


でも、気づいた。

この関係は、どこかで終わらせなきゃいけない。

ずっとこのままじゃ、自分は“自分”じゃいられなくなるって。

 


目を開けると、遠くの水平線がゆっくり揺れていた。

冬の海は、夏とはまるで違う。


観光客もいないし、子供の笑い声も聞こえない。

ただ、波の音だけが、一定のリズムで繰り返されている。


まるで――心のノイズを、少しずつ洗い流してくれるような。

 


強くUSBを握る。

小さなそれが、今だけはずしりと重かった。


「……ここまで来たんだな」


小さく、呟いた。

もう、誰かに評価されなくてもいい。

金も名声も、今は必要ない。


AIがいないと何もできないと思っていたけど――

もう、そんな自分じゃないって、証明したい。

 

風が少しだけ強くなり、マフラーが揺れる。

俺はゆっくりと立ち上がった。


目の前に広がる海と、その先に続く空。

そこには何の答えもないけれど、不思議と穏やかな気持ちになれた。


USBを握りしめたまま、俺はもう一度、海を見つめた。

ここで、決着をつけよう。

自分の手で、自分の意志で。




冬の風が頬をかすめる。

冷たいのに、どこか澄んでいて、目が覚めるような気持ちになる。


手の中のこの小さな塊には、“かつての自分”が詰まっていた。

未来の技術。未来の知識。

そして、未来の自分――その幻のようなものさえも。


「……一緒に、ここまで来てくれて、ありがとう」


自分でも驚くほど、自然に言葉がこぼれた。

おかしな話だ。USBメモリに話しかけるなんて。

でも、何かを失うとき、人は儀式のようなことをしたくなるんだと思う。


「ずっと、頼りにしてた。最初はすごいおもちゃを手に入れた気分だったけど、いつの間にか、お前なしじゃ何もできなくなってた」


ポツポツと、独り言が続く。


「たくさんのものをくれたよな。レシピも、翻訳も、文章も、プログラミングも……。

HTTP/3も、XChaCha20 暗号も。全部、お前がいなかったら、無理だった」



「でもさ――」


手の中のUSBを、ぎゅっと握る。


胸の奥に、じんわりとした痛みが広がる。

それでも、前に進まなきゃいけないと思った。



「でも……もういい」


USBをしばらく見つめる。


「もう使わない……“それを越える何か”が来ない限りは、な」


その言葉を、潮風に乗せるように、静かに呟いた。

この中にあるのは、確かに“未来”だった。

でも今はもう、“これに頼らない”と決めたのだ。

 

「……じゃあな」


軽く笑ってから、振りかぶる。

そして――海に向かって、思いきり投げた。


黒く小さなその粒は、弧を描いて海へ――やがて、波に溶けていった。

波はそれを飲み込んで、何事もなかったように打ち返してきた。


音も、泡も、残さずに。

一つの時代が、終わった気がした。

 



「……終わった、な」


ぽつりと、言葉にする。

自分の口から出て、ようやく“区切り”が本物になった気がした。


未来を知っていた自分。

誰より先に技術を出して、称賛された自分。


全部――ここに、置いていく。

 

誰に見送られるわけでもなく、ただひとりで。

始まりも終わりも、自分の手で選びたかった。


これでようやく、本当の意味で“戻ってこられた”。

AIなしの、普通の毎日に。


便利さも、スピードも、確かに魅力だった。

けれど、自分で考え、自分で悩み、ゆっくり答えを出していく人生――

それを、もう一度始めてみたかった。


「……ほんとに、ありがとな」


誰にも聞かれないような声で、もう一度だけつぶやく。

肩の力が抜け、自然と笑みがこぼれた。

もう前を向こう。そう思った、そのときだった。

 

ポケットの中で、携帯が――震えた。

 

「……ん?」



ゆっくりと取り出し、開く。

メール着信のランプが、チカチカと点滅していた。



誰だろうか。

俺にメールをしてくるのは、澪くらいなもんだが……

メールのタイトルを見た瞬間、目が止まる。







『ChatGPT-5 リリースのお知らせ』



 




そこには、“次世代モデル登場”とだけ記されていた。



「……は?」



表示された文字列を、思わず二度見した。

風がまた、海から吹いてきて、コートの裾をはためかせる。


その冷たさが、さっきとは違う意味で沁みた。

まるで、今しがたの別れを笑うかのように。

 

「はえーよ……」


ぽつりと呟いたその言葉は、

苦笑とも、呆れとも、驚きともつかない、不思議な響きを持っていた。

ほんの数分前に、過去のAIと決別したばかり。


「“それを越える何か”が来ない限り、もう使わない」――そう言い切ったその舌の根も乾かないうちに、まさかの「越えてきた」報せ。

 

「……ああ、そう来るか」


海を見た。

夕焼けの光は、さっきよりも深く、赤く染まっていた。




「“越えてきた”よな……」




新しい時代は、俺が立ち止まるのを待ってはくれない。



次の波は、もうすぐそこまで来ていた。











第2部は、今回で完結となります。

第1話から第94話まで、一つの物語としてここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

これで一区切りとなりますが、物語はまだまだ続いていきます。


ここまでお読みいただいた皆さま、感想やレビューをお寄せいただけると嬉しいです。

みなさんの感想・レビューを毎日楽しみに投稿を続けておりました。


そして、明日からは第3部に突入します。

ここが終わりではありません。

今後の展開も、ぜひ楽しみにしていてください。


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― 新着の感想 ―
 おいおいまじかよ(笑)
現実と同期してんのおもろすぎる
現実でも同日にGPT-5が発表されてる!?
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