93話 冬が終わる
桐原自動車の応接室。
広いテーブルの中央に、今はただ、俺と数人の役員たちが静かに座っていた。
顧問契約の打ち合わせ――いや、正式な辞退のための場だった。
事前にメールを通して辞意は伝えていたが、やはりこうした話は、きちんと顔を見て話すべきだと思った。
俺は背筋を伸ばし、ゆっくりと頭を下げた。
「……これまで、本当にお世話になりました。そして、申し訳ありません。今後は、顧問としてのお仕事を続けることができません」
静かな沈黙。
役員たちの表情には驚きと戸惑いがあった。
なかでも牧原さんは、明らかに複雑な顔をしていた。
「……理由を、聞いてもいいかな?」
俺は頷いた。
「これまで、自分の持っていた技術を使って、いろんなものを生み出してきました。
HTTP/3やBrotli、動画認識、Verdandy KK……
そのすべてが、“誰かの役に立つ”ことを信じて、やってきました」
少し言葉を選びながら、続けた。
「でも、今は違うんです。その技術が、何に使われるか、どこでどう展開されるか――
自分の手を離れた先で、コントロールできなくなっていくことが怖くなりました」
「……なるほど」
「それでも、見届けるべきだという意見もあると思います。でも僕は、このまま技術を“次々に出し続ける自分”が、正しいとは思えなくなったんです」
一呼吸置いて、静かに言った。
「だから、ここで一区切りつけたくて。この先は、AIに頼らず、ゼロから、自分で考えて生きていきたいんです」
部屋に、少し重い沈黙が戻る。
それでも、どこか穏やかだった。
しばらくして、社長がゆっくりと口を開いた。
「……ずっと、君の能力に驚かされてきたよ。それこそ“神童”のようだと、幹部のあいだでも何度も話題に出た」
「恐縮です……」
「HTTP/3を企業ネットワークに導入して以降、転送速度が大幅に改善し、国内外の提携先からは“技術の桐原”とまで呼ばれるようになった」
副社長が横で頷く。
「画像認識技術も含め、既に何千億円分の経済効果を社にもたらしている」
俺は、驚いて顔を上げた。
「……そんなに……」
「そうだよ。君がもたらした成果は、短期的にも長期的にもとんでもない規模だった。
だから、顧問契約を辞めたいって言われても――」
一度、言葉を切ってから。
「がっかりなんかしてないよ、恭一くん。残念だがむしろ感謝してる。本当に、ありがとう」
その言葉が、胸にじんと響いた。
「本当は、引き止めたかった」
牧原さんが言った。
「でも、顔を見たら分かった。……もう決めたんだね」
「……はい」
「なら、止めるのはやめるよ。」
思わず、言葉が詰まりそうになった。
でも――もう迷いはなかった。
契約書の破棄手続きを終えると、社長が最後に、静かに立ち上がった。
「何か困ったことがあったら、遠慮せずに相談してほしい。君はもう、我々の“大切な同志”だから」
俺は、深く頭を下げた。
心の底からの感謝と、これまでのすべてに、敬意を込めて。
* * *
桐原自動車との契約を終えた翌日。
俺は、久しぶりに自分の部屋でパソコンに向かっていた。
目の前にあるのは、俺がこれまで管理してきた――Webサービスの管理画面だった。
翻訳サイト。
作文支援サイト。
ニュースまとめサイト。
レシピサイト。
天気予報サイト。
フラッシュゲームページ。
それぞれのアクセスログやコメントを眺めながら、指を止める。
一つひとつが、自分の作った“何か”で。
一つひとつに、使ってくれた人の痕跡があって。
簡単には、どれも切れない。
でも――決めたんだ。
未来のAIに頼らず、自分の力で生きていくって。
その覚悟を形にするには、“選別”が必要だった。
まず、翻訳サイトにカーソルを合わせる。
ここには、たくさんの感謝の声が届いていた。
「卒論が通りました」「英語のメールが送れました」
……たぶん、役に立っていたのは間違いない。
でも、ここはChatGPTの出力そのままで成立していた。
自分の手では再現できない。
「……ごめん」
静かに、閉鎖のボタンを押した。
画面に「公開停止中」と表示される。
次に、文章代行サイト 。
小論文の構成から、キャッチコピーまで支援できる万能型ツールだった。
こちらも、使ってくれた人は多かった。
でも、これも……ChatGPTがいないと、正直、自分じゃ太刀打ちできない。
「文章の構成って、自分で考えるの大変なんだよな……」
深呼吸して、これも非公開に。
そして、ニュースサイト。
これは、自動でRSSから記事を集め、AIが要約して配信していた。
「……要約なしで、手書きの“コラム記事”にしよう」
新着情報は拾いつつ、要点と意見を自分の言葉で書く。
負荷は倍以上。でも、それでも残したかった。
この世界の出来事を、自分の視点で見て、自分の言葉で誰かに伝えたい。
それが“未来を選び直す”第一歩のような気がした。
「いや……ニュース手書きって、地味にきついんじゃ……?」
我ながら無謀すぎると、画面の前で内心ツッコミを入れる。
でも、笑えているうちは、まだ大丈夫だ。
次に、レシピサイト。
ここだけは――なぜか、すぐに決まった。
「これは、残す」
出力じゃなく、入力のぬくもりを残したいと思えたから。
家庭の味、工夫、暮らしの知恵。
誰かの“今日のごはん”になるかもしれない、その一皿。
それを、AIじゃなく、自分の手で書き続けたいと思った。
「……いや、俺、レシピ書けるのか?」
冷蔵庫の余り物で適当に炒めるスキルしかないのに、料理指南とか、正気か?
母さんにも手伝ってもらおうかな。
まあ、なんとかなるか。
そして最後、天気予報とゲーム。
「これは、現状維持で」
どちらも、AI依存はそれほど強くない。
天気の自動更新は、ChatGPTを使ったままにしておこう。
あと広告は消して、完全にボランティアで継続するか。
ゲームは作った時のままだ。
そこまで人気にならず、ぽつぽつと遊ばれている感じだ。
“息抜きのページ”として、残しておこう。
こうして、ひとつずつ選び直していく作業は、
まるで自分の“これから”を少しずつ積み上げていくようだった。
Verdandy KK――
あのAIソフトをどうするか。
それは、俺の中で最後に残った大きな課題だった。
社会人や研究者、学生など、いろんな立場の人が使っていた。
学会で取り上げられたこともあり、問い合わせや利用希望もいまだに絶えない。
でも。
「……新規の募集は、今日で終了しよう」
もうそのすごさに振り回されるのはごめんだ。
Verdandy KKの登録ページは閉じ、代わりにシンプルな一文を載せた。
※現在、新規の利用受付は終了しております。今後のサポート等については、引き続き協力者にて対応いたします。
その“協力者”――つまり、叔父さんのことだ。
登録ページを閉じ終えたあと、俺は一階のリビングへ降りた。
叔父さんはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「叔父さん、これからのVerdandyの顧客管理……お願いできる?」
俺が尋ねると、叔父は少し眉を上げ、それからすぐに頷いた。
「Verdandyは消すのかと思っていたが、続けるんだな」
「うん、迷ったけど……もう使ってくれている人が多いし、ここまで来たら簡単には終われない。
自分が軽い気持ちで公開した責任として、このまま継続するよ」
「いい判断だ。技術者にとって一番怖いのは“他人の判断に委ねること”だからな。
止めるという選択だって、立派な判断だよ」
その言葉が、静かに心に染みた。
未来の技術を否定するわけじゃない。ただ……俺は、自分でどう向き合うかを決めたかった。
「でも、新規の募集は打ち切る」
Verdandy KKのメンテナンス用データと更新情報をUSBにまとめ、叔父に渡した。
ただし、管理用のパスワードだけは俺が保持することにした。
未来を見ている責任として、それは俺だけが知る情報にしておく。
叔父も中身を詳しく知りたいだろうが、新しい管理者パスは暗号化されたコードのみに設定した。
完全に操作できるのは、あくまで俺だけだ。
これで、ひとつ肩の荷が下りた。
その日の夜、俺はようやく深く眠れた。
夢は見なかった。
* * *
冬が、終わろうとしていた。
桐原自動車からの顧問解除など、すべて手続きが済んだ。
手元には、何も残らなかった。
それでも不思議と、寂しさよりも「軽さ」を感じていた。
“ずっと一人で背負っていた”荷物を降ろしたような、そんな解放感だった。
振り返れば、怒涛の日々だった。
未来のAIと出会い、それを使って技術を出し、
大人たちを驚かせ、契約を結び、金を稼ぎ、社会に影響を与えて――
あっという間に、世界の“中心”に近づいてしまった。
でも同時に、見失っていた。
なぜやるのか。
誰のために作るのか。
どこまでが自分で、どこからがAIだったのか。
全てがごちゃ混ぜになって、最後には“俺って何者?”と自問するしかなかった。
そんな俺に、澪は手を差し伸べてくれた。
そして、家族も受け止めてくれた。
技術を使わないと決めた今の自分にも、
“それでいい”と肯定してくれる人が、こんなにも近くにいた。
それだけで、救われる気がした。
レシピサイトに、新しい記事を投稿した。
タイトルは「卵とキャベツの優しいスープ」。
最初は澪に味見してもらい、意外とおいしいと笑ってくれた。
写真も自分で撮って、説明文も時間をかけて書いた。
――これは、AIじゃない。全部、自分の言葉で、自分の速度で作ったものだ。
更新ボタンを押したとき、心の中に、静かな達成感が生まれた。
たぶん、これからも迷う。
本当にこれでよかったのかって、自分を問い直す日が来るかもしれない。
でも、そのときはまた――誰かと話そう。
頼ろう。悩もう。そして、また進もう。
一人じゃない。
そう思えることが、何よりの“財産”なのかもしれない。
「これがきっと、俺の“再スタート”だ」
次の話で第2部のラストです。
ラストがどのような展開になるのか楽しみにしてお待ちください。




