90話 ミオの糸
二日も、学校を休んだ。
体調は、正直、悪いのかどうかさえもう分からなかった。
熱はない。でも、体が重い。息が浅い。思考がまとまらない。
ずっと横になって、カーテンを閉め切った暗い部屋の中に、俺は沈んでいた。
母さんには「風邪っぽい」とだけ伝えた。
「おかゆ作っといたから、温めて食べなさいね」
それだけ言って、そっとドアの前にトレイを置いてくれた。
いつもなら、それだけでなんだか安心できたのに。
今日は――何も、響かなかった。
午後になって、ようやく少しだけ体を起こせるようになった頃。
インターホンが鳴った。
こんな時間に? と思ってドアを開けると、
玄関に立っていたのは――澪だった。
制服の上にカーディガンを羽織っていて、手には小さな紙袋を持っていた。
「……来ちゃった」
ほんの少し笑ったあと、目を伏せるようにして言った。
玄関で澪を出迎えると、俺はそのまま自室に案内した。
母さんは俺の様子に気づいたのか、何も言わず、そっとキッチンへ引っ込んでくれた。
ドアを閉めてから、俺は少しだけ間を置いて、自分のベッドに腰を下ろした。
澪は遠慮がちに部屋を見渡したあと、ローテーブルの前に座る。
手に持っていた紙袋から、缶の桃ジュースと栄養ゼリーを取り出した。
「なんか、こういうときって“桃”な気がした」
「……ありがと」
受け取りながらも、俺はほとんど目を合わせられなかった。
沈黙が続く。
でも、次の言葉は、意外とすぐにきた。
「心配したよ。……ほんとに」
「……うん」
「連絡も返ってこないし……そしたら、2日続けて休んで」
カーディガンの袖の先を指でつまみながら、
澪の目が、じっと俺のほうを見ていた。
ふわっと笑ったあと、少しだけ澪の顔が曇る。
「……熱かな? 早く元気になってね」
そう言って、澪がそっと手を伸ばし、俺の頭に手を置いた。
なでるように、優しく、ゆっくりと。
その瞬間――
ぶわっと、何かが胸の奥からせり上がってきた。
呼吸が詰まって、視界がぼやけていく。
「……っ、あ……」
言葉にならなかった。
目から、熱いものが零れた。
頬をつたって、止まらなかった。
澪が驚いたように目を見開き、すぐにそっと手を引いた。
でも、もう遅かった。
「ごめん……なんか……だめだ……」
自分でも情けないくらい、声が漏れた。
「……俺、ちょっと、もう……だめかもしれない……」
しゃくりあげるようにして、俺は泣いた。
泣いて、泣いて、ようやく少しだけ息が整ったころ。
うつむいたままの視界の端に、澪の足が見えた。
そっと立ち上がる音。
そして、ためらうような一瞬の間を挟んで――
澪は、俺の隣に座った。
何も言わなかった。
言葉ではなく、その“距離の近さ”が、じわじわと胸に染みてきた。
距離感って、こんなに優しいものだったんだと思った。
澪の肩が、ほんの少しだけ俺の肩に触れていた。
彼女はそれ以上何もせず、ただ黙って、そこにいた。
その沈黙が――苦しくなかった。
逆に、こんなにも救われるものなんだって、思った。
しばらくして、喉が渇いてきたのに気づいて、
机の上の桃ジュースに手を伸ばす。
缶を開けて、一口だけ飲んだ。
微炭酸の甘さが、かすかに胸に沁みた。
「……ありがと」
小さくそう言った声は、まだかすれていたけど、
澪はうなずくように笑った。
「……」
もう少しだけ、澪のぬくもりに甘えていたかった。
でも、俺は――話さなきゃいけないと思った。
泣いたまま、黙ってやり過ごすわけにはいかない。
これを言える相手は、きっと今、目の前にいる澪しかいない。
「……澪」
「うん」
「俺、ずっと隠してたことがあるんだ」
その言葉に、彼女の体が少しだけ動いた気がした。
でも、それでも彼女は何も言わなかった。
待ってくれていることが、伝わってきた。
「……俺、未来の技術を、手に入れてたんだ」
ぽつりと、声に出すと、澪の体がわずかに動いた。
でも、俺は顔を上げず、視線を落としたまま続けた。
「ある日、うちのPCに……“ChatGPT”っていう未来の人工知能が入ってた。
どうして入ってたのか、自分でもよく分からない。でも、最初から全部動いてて……」
「……“チャットジーピーティー”? それ……何?」
澪の声は、戸惑いと不安が混ざっていた。聞いたこともない単語に、一瞬だけ間が空く。
でも、それでも――手は離れなかった。
「それを使って、文章サイトとか、翻訳サイトとか、レシピサイトとか……
いろんな技術を、いまの時代に“先に出した”。
どれも未来に本当に存在する技術で、それを俺が先にやった」
言いながら、胸の奥にずっと詰まっていたものが、じわりと溶けていくような感覚があった。
「誰にも言えなかった。信じてもらえないだろうし……
こんなもん、知られたら、いろんな人に利用されるかもしれないって思って」
声がかすかに震えていた。
「……でも今、俺の技術が……誰かを殺すために使われそうなんだ」
黙っていた澪が、そっと俺の手を握った。
何も言わず、やわらかく、ただそっと。
それは、暗闇に落ちた俺に差し伸べられた、一本の糸のようだった。
澪の手――そのぬくもりが、こんなにもあたたかくて。
今にも崩れてしまいそうな心を、ぎりぎりで支えてくれた。
「……怖かった」
そう言ったとき、ようやく目を上げた。
澪は、泣いてはいなかった。
けれど、その目には、涙以上にまっすぐな光が宿っていた。
「……バカ」
その一言に、胸がぎゅっと縮んだ。
でも、怒っているんじゃなかった。
「もっと早く言ってよ。……そしたら、ずっと隣にいたのに」
澪の声は、静かだった。
でも、その言葉は、今まで誰にかけられたどんな慰めの言葉よりも強くて、
優しくて、胸に深くしみた。
俺は、何か返そうとして口を開きかけたけど、
言葉にならなかった。
その代わりに――
澪の手が、俺の背中に回された。
ふわりと、軽く。
でも、はっきりと、包み込むように。
彼女が、俺を――抱きしめていた。
驚いて目を見開いたけれど、すぐに何かが崩れるように、
俺の腕も、自然に澪の背に回っていた。
小さくて、あたたかくて、優しくて、
こんなに誰かのぬくもりを欲していたんだと、自分で気づく。
お互い、何も言わなかった。
言葉よりも、重なった鼓動の方がずっと雄弁で。
ずっとひとりで、誰にも言えず、押し殺していた想いが、
澪の呼吸と一緒に、溶けていくような気がした。
「……怖がらなくていいよ」
小さく、耳元で澪が言った。
「すごいことしてるって、ちゃんと分かってる。
それが悪用されるかもって、悩むのも、すごく自然なことだよ」
「……でも」
「でも、“人が傷つくかもしれない”って怖がるキョウくんは、誰よりも優しい人だよ。私は、それをちゃんと見てきた」
その一言に、胸がいっぱいになった。
優しい、なんて。
今の自分に一番遠い言葉だと思ってたのに、
澪の口から出ると、なぜか、それが一番信じられた。
「ずるいよな、俺……」
小さくそう漏らすと、澪がふふっと笑った。
「うん。ちょっとずるい」
「俺ばっか、話聞いてもらって、慰めてもらって……」
「ううん、全然。最近の恭くんが遠くに行ってしまったみたいだったけど、やっと近づいた」
「え?」
澪が少し身体を離し、俺の目を見つめて言った。
「恭くんは、私の中ではただの大好きな恭くんだから」
その顔が、すごく近かった。
真剣で、照れてなくて、でも少しだけ頬が赤くて。




