9話 参考書とふたり
「ねえ恭一、本屋寄ってかない?」
放課後の昇降口。靴を履き替えていたところで、澪がそう声をかけてきた。
「本屋?」
「うん。ちょっと参考書とか見ておきたくて。……受験、始まるし」
「あー、なるほど」
教室ではいつも笑ってる澪だけど、内心はちゃんと“受験生モード”になってるらしい。
その真面目さに、なんとなく好感が持てた。
「じゃあ一緒に行くか」
「やった、ありがと!」
商店街の角にある、小さな書店。
学校帰りに寄る学生や、地元の主婦がよく立ち寄る、あの“ちょっと古びたけど落ち着く空間”。
入ってすぐ、文房具や漫画のコーナーを通り抜けて、店の奥――教科書・参考書コーナーへ向かう。
棚にはずらりと、受験対策本が並んでいた。
「……うわ、いっぱいあるね……」
澪が思わず立ち止まって、目を丸くする。
「だな。中学総まとめとか、教科別問題集とか……とりあえず、一冊ずつ見てみるか」
ふたりで並んで棚を眺めながら、必要そうな本を手に取っていく。
「恭一は何買うの?」
「んー……俺、英語とか数学はだいたい頭に入ってるんだけど、社会と理科がちょっと怪しくてさ。昔覚えた記憶はあるんだけど、詳細がぼんやりしてる」
「……“昔”って、なんか言い方が変じゃない?」
「気のせいだって」
ニヤッと笑ってごまかしつつ、歴史の年表がついた薄めの一冊と、理科の図解まとめ本を手に取る。
どちらもイラストが多くて、パラパラ読むだけで知識が戻ってきそうなタイプ。
「これは、復習用って感じだな……」
「へぇ、意外と準備してるんだね。恭一って、“なんとかなるっしょ”ってタイプかと思ってた」
「そう思われがちだけどな。内心ではちゃんと危機感持ってるんです」
「ふふ、えらいえらい」
澪はというと、英語の棚の前で悩んでいた。
「英語……ほんと苦手なんだよねぇ……。単語もすぐ忘れるし、文法もなんかワケわかんなくなるし……」
「どれどれ、どんなの見てた?」
「このへん。中学3年間の英文法まとめ、とか……でも、分厚すぎて気が遠くなる」
「あー、それは“できる人向け”かもな。もうちょっと絞ったやつがいいかも」
俺は棚をざっと見渡し、“昔の教育者目線”を発動する。
「これとかどうだ?」
俺が取り出したのは、フルカラーで図解も多めの、文法解説+例文練習が1ページで完結してるタイプの問題集。
「ポイントごとにまとまってるし、ページに余白が多いから書き込みやすい。あと、ページの終わりに“覚えた?”ってチェック欄があるから、進み具合が可視化できる」
「へぇ……ちょっと読んでみるね」
澪は立ち読みしながら、「これ、わかりやすいかも」とぽつり。
「……なんか、塾の先生っぽかったよ。今の説明」
「教えるの、嫌いじゃないからな」
「そっか」
一瞬だけ、澪がこちらを見た。
どこか照れたような、それでいて安心したような目だった。
参考書を何冊か手に取ったとき、澪が小さな声でぼそっと言った。
「……さっきの本、買ってみる」
「お?」
「恭一に選んでもらったし、ちゃんとやらなきゃね」
ふーん、意外と素直だな、と思いつつ、俺はドヤ顔で腕を組む。
「お、責任重大だな。使いこなせたら、お礼くれよ?」
澪はぴくっと反応して、眉をひそめる。
「なにそれ、なにが欲しいの?」
「んー、そうだな……俺がレシピサイトで紹介したメニューを、ちゃんと再現して感想文を書いてくれるとか?」
澪は一瞬、ぽかんとした顔になったあと――
「……えー、めんどくさ!」
と、露骨にイヤそうな声を上げた。
おい、今のはもうちょっと迷え。
「っていうかさ、そのサイト、まだ続けてたの? 飽きてないの?」
「当然」
胸を張る俺。
すると澪は、ぷっと吹き出した。
「ほんと、よくわかんないとこでマメだよね、恭一って」
「……自分でもそう思うわ」
今さらだけど、俺、なんでこんなにレシピに命かけてるんだろうな。
元35歳、二度目の中学3年生、趣味・レシピサイト運営――なんか字面が地味すぎて泣ける。
そんなことを考えている間にも、レジに近づく。
前に並んでいるのは、いかにも受験戦争まっただ中って感じの男子高校生二人組。
「おい、この単語帳ヤバいぞ。無理だ、全部呪文に見える」
「いや、俺、こっちの古文単語の方がヤバい。日本語に見えない」
「どっちも死ぬな。はい、オワター!」
「オワター!」
謎のテンションでやけくそ気味に笑いあっていた。 たぶん彼らも、現実逃避しながら戦っているんだろう。 がんばれ、未来の大学生たち。
―――――――――
「ふぅー……本屋って、なんであんなに時間経つの早いんだろ」
書店を出た澪が、少し伸びをしながらつぶやく。
空はすっかり夕暮れ色。
商店街のアーケードにはオレンジの明かりがともり始めていた。
俺は紙袋の中を覗きながら、ふと考えていた。
――英語の参考書。
文法の解説、例文、和訳と英訳の練習。
「……これ、ChatGPTで、全部できるよな」
問題文を入れれば翻訳してくれるし、文法解説もしてくれる。
発音の説明や用法の違いすら、丁寧に出してくれる。
つまり――「翻訳サイト」って、いけるんじゃないか?
レシピサイトで実感した、“AIの出力×需要”という勝ちパターン。
次に狙うとしたら、勉強系、しかも“面倒だけど大事な”作業をサポートできるやつがいい。
英語の翻訳はその代表格。
中学生でも、高校生でも、英文を「とにかく訳して意味を知りたい」ってシーンは山ほどある。
「簡単な文章を入れると、日本語訳が出て、ついでに単語の解説と文法も教えてくれる」
そんなサイトがあれば、絶対に便利だ。
(スマホがまだ主流じゃない今だからこそ、PCで完結するサイトの価値は高いはず――)
「……よし、次は翻訳サイトだな」
「なにが“よし”なの?」
「うおっ!?」
横から不意に澪の声が飛んできて、思わずのけぞる。
「なにその“やってやるぜ”みたいな顔。なんか悪巧みでもしてた?」
「いや、別に悪くない……と思う」
「なに考えてたの?」
「んー……翻訳サイト作ろうかなーって」
「翻訳? あ、さっき言ってたレシピの……英語バージョンとか?」
「いや、ガチの“英語→日本語”とか“日本語→英語”の変換サイト。勉強にもなるし、使い道は多い」
「へぇ……」
澪はちょっと驚いた顔をしていたが、すぐににこっと笑った。
「ほんと、最近の恭一って、なんか色々考えてて不思議」
「……前はそんなに何も考えてなかった?」
「うーん、考えてたんだろうけど、外に出さなかった感じかな。今のほうが、なんか話してて楽しいかも」
「……そっか」
ちょっとだけ嬉しくなる言葉。
「ねぇ、恭一」
隣を歩いていた澪が、不意に声をかけてきた。
「ん?」
俺が振り向くと、澪は少しだけ下を向いたまま、靴の先でアスファルトを小さく蹴った。
「……同じ高校に行けたら、楽しそうだよね」
その声は、春風みたいにふわっと耳に入ってきた。
何気ない一言。 でも、それはやけに心に沁みた。
一瞬、心臓がドクンと跳ねる。
「……お、おう。まあ、そうだな」
情けないくらい、間の抜けた返事しかできなかった。
澪はそんな俺の反応を気にする様子もなく、ふわっと笑って言葉を続ける。
「どうせなら、同じ高校で……また一緒に宿題とか、できたらいいなって思って」
その横顔は、どこか照れくさそうで、でもちゃんとまっすぐだった。
春の夕陽が斜めから差し込み、澪の髪がきらきらと光る。 ほんの少し伸びた前髪が、やわらかく揺れていた。
「……英語、今度から出来れば毎週教えようか?」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
我ながら唐突だと思ったけど、後悔はしていない。 むしろ、これくらいのきっかけでもないと、たぶんずっと距離を縮められない気がしたから。
「ほんと!? やった!」
澪はパッと顔を上げて、満面の笑顔を見せた。 その笑顔は、さっきまでの夕陽よりもまぶしくて――俺は思わず、目を細めた。
夕陽に照らされて、澪の頬がほんのり赤く染まって見える。
いや、それは光のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
俺は前を向いたまま、できるだけ自然に言った。
「ちゃんと勉強すれば……たぶん、どこでも一緒に行けるよ」
「えへへ、じゃあ、がんばらなきゃ」
澪はうれしそうに笑って、手に持っていた参考書の袋をぶんぶん振った。
その姿があまりに無邪気で、思わず笑いそうになる。
ほんの数歩だけ、ふたりの歩幅が重なった。
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【現在の収益】 (4月22日時点)
レシピサイト 160円