87話 国家安全保障局①
重たい静けさが、会議室の空気を押し潰していた。椅子を引く音も、誰かの咳払いもない。ただ全員が、黙ってその“訪問者”を待っていた。
桐原自動車の東京支社、役員用の特別会議室。
壁は防音仕様で、窓もカーテンで閉ざされている。
俺の他には、社長、副社長、牧原さん、そして技術統括の柏原常務。
そこに、時間きっかりに扉がノックされた。
「NSAの方々です」
秘書の女性が小声で告げると、空気がさらに一段引き締まった。
扉がゆっくりと開き、3人の人物が入ってきた。
先頭に現れたのは、無表情の白人男性。鋭い視線で、まるでその場の空気を制するかのような圧を放っている。
後ろから、30代くらいのアメリカ人女性が一歩前へ出た。
彼女はすぐに名刺を差し出し、流暢な日本語で自己紹介を始めた。
「初めまして、私はローレン・ケリー。アメリカ国家安全保障局、NSAの通訳担当です。本日は、日本語通訳および技術補助的な確認役として同席しています」
一礼のあと、さらにもう一人、がっしりとした体格の黒人男性が現れた。軍服姿で、腕には階級章がある。
彼は無言のまま立ち止まり、周囲に目を配ってから、静かにうなずいた。
その様子に合わせるように、女性の背後にいた白人男性が軽く頷いた。
ただそこに立っているだけなのに、場の緊張感がぐっと高まる。
「This is Agent Whitman.」
「And this is Agent Harris.」
ローレンが紹介すると、ふたりは短く名乗り、あいさつ程度の英語で社長に手を差し出した。
握手のあと、全員が椅子に着く。
テーブルを挟んで、彼らの態度は終始静かだったが、その“沈黙の圧”がすでに尋常ではなかった。
明確に“政府機関”の空気だ。
民間企業の交渉とは、まるで違う。
社長が一息ついて、口を開いた。
「本日はお忙しい中、遠方よりありがとうございます。ではさっそくですが……ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
ローレンが軽くうなずき、ふたりのNSA職員に英語で確認を取る。短いやり取りのあと、通訳としてこちらを見た。
「本国より、Kiriharaが開発中の“歩行者検知AIカメラ技術”について、正式に提供を打診するよう命を受けております」
言葉を選びながらも、はっきりとした口調だった。
社長が穏やかに返す。
「提供、というのは……具体的には?」
「技術の一式です。コード、アルゴリズム、試作機、運用ノウハウも含まれます。それらをNSAの保安インフラに組み込む計画です」
(……まあ、そりゃそうだよな。アメリカだもん)
俺はふと、ハリウッド映画のワンシーンを思い出した。
大統領を囲む黒服のSPたち、銃撃戦、爆破テロ、逃げるリムジン――ああいう“守るための戦い”を描く映画。
あれはフィクションだけど、現実の世界で、それを本気で防ごうとしてるのが、今目の前にいる人たちなのかもしれない。
(……でも、それが“俺の技術”で?)
社長が、ほんの少しだけ目元を引き締める。
「条件についても、お伺いしてよろしいですか?」
ローレンはうなずき、同じトーンのまま答える。
「米国連邦政府として、提供の対価として80億円を提示いたします。支払いは一括。技術評価と導入完了をもって即日処理が可能です。開発者の継続的な関与義務は発生しません」
……80億円。
その金額が空気を変えた。
会議室の空調は変わらないはずなのに、ひやりとしたものが肌をなでた。
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
副社長がペンの動きを止め、隣で牧原さんも静かにまぶたを伏せる。
(……その金額を払ってでも、欲しいんだ)
社長は表情を変えずに次の質問を続けた。
ローレンも変わらぬ調子で受け答える。
その会話のやり取りは淡々としていたが、互いに一歩も譲らない緊張が、テーブルの上に見えない火花を散らしていた。
彼女の目は笑っていた。けれどそこに、"交渉"の余地はなかった。
「……ご検討いただけるようであれば、1週間以内のご返答を希望いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
ローレンの丁寧な一礼とともに、会話は一度締めくくられた。
その瞬間、静かに――けれど確実に、空気が変わった。
自分の作った技術が、今、世界の“安全保障”という文脈に組み込まれようとしている。
その事実が、じわじわと胸にのしかかってくる。
誰もすぐには言葉を発さなかった。
重たい沈黙のあとで、ようやく社長がゆっくりと口を開いた。
「……やはり、最終的な判断は“開発者本人の意向”に委ねるべきだと考えています」
その言葉に、全員の視線がこちらに向けられる。
一気に背筋が伸びるのがわかった。
「開発者……つまり、僕ですね」
声がやけに自分の口から浮いて聞こえた。
社長はうなずきながら、穏やかな口調で続ける。
「桐原自動車としては、この技術が社会に役立つものである限り、提供先を選ぶ理由はありません。
防犯、あるいは安全保障という目的であれば、相手が国家機関でも、協力を惜しむつもりはない」
静かに、でも確かに伝わってくる決意だった。
俺はその言葉を受け止めて、小さくうなずく。
「……わかりました。僕は顧問という立場ですし、桐原さんが“よし”と言うなら、それに従います」
すると、周囲の役員たちも次々と首を縦に振った。
形式的には、すべての権利は桐原に帰属している。
でも、こうして「開発者の同意」というかたちをとることで、内外への“筋”が通る。
社内の倫理的なラインにも、外部からの批判に対しても、きちんと答えられるように。
ローレンがそれを見届けたうえで、再び言葉をつないだ。
「なお、本件で提示された契約金についてですが……我々NSAとしては、開発者本人にも正当な報酬が支払われるよう、強く要望しております」
社長は彼女の言葉をしっかりと聞き、ゆっくりと頷いた。
「……もちろん、そのつもりです」
そう言ってから、ふとこちらに目をやる。
「この“歩行者検知AI ”は、技術的な完成度が非常に高く、将来的な商用化によって十分な収益が見込めると判断しています。なので今回の80億円は――すべて、開発者である君に還元する方針で考えています」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。思わず聞き返す。
「全額……って、本当にいいんですか?」
「はい。詳しい説明は後ほどになりますが、葛城くんは、すでに当社に対して十分すぎるほどの貢献をしてくれています」
社長の返答は、即答だった。
まるでずっと前から決めていたかのように、言葉に迷いはなかった。
「これまでの君の働き、この技術の価値、そして未来への期待も含めての評価です」
その言葉が落ちたとき、俺の中で何かが止まったような気がした。
言葉が、出てこない。
数字が現実を超えすぎていて、頭がついていけなかった。
ただ――冗談ではない、ということだけは、社長の目を見ればすぐに分かった。
「正式な手続きは、法務部と契約担当が進めます。君は、どんな形で受け取るかを考えておいてくれればいい。現金、信託、分割、なんでも構わない」
牧原さんが補足するように優しく言ったが、その言葉の温度も非現実すぎて、思考が追いつかない。
80億円。
命を守るための技術、その見返りとして生み出されたまるで桁違いの対価。
何を買っても足りる。何もしなくても一生困らない。
会議がひと段落した頃、俺は、ふと手を挙げた。
「少し、質問してもいいですか」
社長が軽くうなずき、NSA側に目を向ける。
ローレンがこちらを向いて、通訳の態勢を整えた。
「どうぞ、どういったことを?」
「……その技術、つまり、僕が作った“歩行者検知AI”を、アメリカではどんな風に使うつもりなんですか?」
少しの沈黙が流れた。
その場にいた全員が、言葉の意味を正確に理解していた。
“何に使うか”――それは、この技術の“善悪”を分ける境界でもある。
ローレンが小さくうなずき、二人のNSA職員と視線を交わしてから、静かに答えた。
「我々が想定している用途は、主に公共空間における防犯カメラネットワークへの統合です」
「防犯カメラ……?」
「はい。駅、空港、学校、病院、都市部の交差点など――
既存の監視カメラに比べ、AIによるリアルタイム追跡と脅威の検知を導入することで、未然に犯罪を防ぐことを目的としています」
ローレンの声は一貫して落ち着いていた。
しかし、それが逆に、緊張感を際立たせていた。
「我々の使用目的は“車両搭載”ではありません。あくまで固定型の監視システムに組み込む想定です。
つまり、桐原自動車の用途とは競合しません」
「……そうですか」
俺は、微かに息を吸いながら、首を縦に振った。
理屈は通ってる。
公共の安全、監視精度の向上、テロ対策――どれも、正論だ。
そして、車載システムとは市場も構造も別物。
たしかに“競合しない”という主張は正しい。
(そんなものなんか……?)
「……分かりました。とりあえず、そういうことなら」
「ありがとうございます」
ローレンがうなずき、書類の確認に戻っていく。
社長も、改めて全体を見渡して言った。
「繰り返しになりますが、桐原自動車としては、自社の主力技術を守ると同時に、社会貢献にもつながる展開は歓迎しています。開発者の了承も得た今、手続きに入らせていただきます」
それを受けて、会議室は静かに“実務モード”へと移行していった。
書類の確認、日程調整、法務対応、記録。
目の前のやり取りは、すべて“現実”だ。
だけど、どこかで、俺の心だけが――そこから、少し遠い場所にいた。
(防犯カメラ、ね……)




