86話 歩行者認識AI
ちょうど1か月ちょっとが経った。
俺が桐原自動車に画像認識AIのアイディアを提案してから。
そして、それが現場で検証され、社内で盛り上がって――ついに、今日。
桐原が公式に発表した。
《歩行者認識AIカメラシステムの商用化に向けて実装へ》
そんな見出しが、新聞の経済欄を飾っていた。
朝食を食べながら、それをぼんやりと眺める。
(……早いな)
――けど、すごいのはそこだけじゃなかった。
テレビをつけると、ワイドショーでもその話題が取り上げられていた。
「続いては、車が“人を見る時代”です」
司会者がやや誇張気味にそう言って、スタジオのモニターに動画が映る。
街の交差点で、子どもが自転車で横切ろうとする――
その瞬間、車のフロントカメラが赤枠で歩行者を囲み、モニターに警告が出る。
「これが、桐原自動車が発表した“歩行者検知AI”システムです」
「わあ、ちゃんと赤く表示されてる……!」
「この技術、事故を防ぐだけじゃなく、ドライバーの安心感にもつながるって話なんですよね」
まるで、“未来”がすでに現実になったみたいな騒ぎだった。
ネットニュースを開けば、海外でもこの話題は取り上げられていた。
《Japanese automaker Kirihara unveils pedestrian detection AI with real-time tracking》
《This could reduce global traffic deaths by thousands annually, experts say》
アメリカ、ドイツ、韓国、中国。
技術系メディアも、モータージャーナルも、こぞってこの技術を“革命的”と報じていた。
英語記事をChatGPTで翻訳し、その日本語を読みながら俺は思った。
(……すごいな、これ)
自分の作ったPDFが、世界中を動かしてる――そんな実感は、さすがにまだない。
でも、画面の中の熱量は本物だった。
来年を目途に導入を開始するという。
法人向けの業務車両への導入、学校の送迎バスへの搭載、小型配送車への標準装備化。
“事故を減らす技術”というキャッチコピーは、どこに行っても歓迎されていた。
(ほんとに、これで……誰か、助かるのかな)
テレビの音が静かに部屋に流れ続けていた。
「……いや、出来すぎてるな」
思わず声に出していた。
ここまでスムーズにいくのか、と、どこか疑っている自分がいた。
提案からたった1か月。
検証もメディア対応も、何から何まで順調すぎる。
嬉しい気持ちは本物だけど、
一方で――「こんなにうまくいって、大丈夫か?」という感覚も、胸の隅でじわりと広がっていた。
そのとき、出勤前の父さんがテレビを横目に、ぽつりと言った。
「……お前の作ったやつ、出てるな」
「え?」
「いや……あれ、だろ?」
それだけ言って、何も詳しくは聞かず、玄関へ向かっていった。
いつものように靴を履いて、コートの襟を立てる。
そういえば、父さんにはまだ、何ひとつ詳しく話していない。
でも――たぶん、分かってる。
全部は知らなくても、俺が“何かをやった”ってことだけは、ちゃんと伝わってる気がした。
画面の中では、桐原の広報担当が報道陣に囲まれて言っていた。
「我々は、この技術で“事故ゼロ”という理想に近づけると信じています」
事故ゼロ。
簡単じゃない目標だ。でも、そう言ってくれるのは、やっぱり嬉しい。
その瞬間だけは、俺も、少しだけ誇らしい気持ちになった。
テレビを消して、パソコンでネットニュースを開く。
そのトップに、目を引く見出しが躍っていた。
《桐原自動車、歩行者認識AIの発表を受け株価ストップ高》
思わず画面を見つめたまま、声が漏れる。
「……ストップ高、かよ」
確かに、あれだけテレビやネットで騒がれれば、株価も上がるだろうとは思ってた。
でも、“市場が反応する”っていうのは、また別の次元だ。
実用化への期待、企業価値の再評価、そして“次世代安全技術”というブランド。
桐原は、もはやただの自動車メーカーじゃない。
世界が注目する、革新企業のひとつとして見られていた。
掲示板でも経済誌でも、「これまでの保守的な企業像が一変した」と評されている。
(これ……マジで、すげえことになってきたな)
まさか、自分のPDFが、そんな規模のうねりを生むなんて。
正直、そこまでは――さすがに、想像していなかった。
* * *
夕方、公園のベンチで澪と会った。
最近はそれぞれの友達と会った後の帰りに、学校近くの公園で待ち合わせして一緒に帰る。
いつの間にかこれが俺たちの日常になっていた。
「おつかれ。……最近寒くなったね」
「うん、もう手先が冷える」
ホットミルクティーを2本買ってきて、1本を差し出す。
缶を受け取る手の力が、少しだけ弱かった。
何気ない会話のあと、俺はつい、その話をしてしまった。
「なあ、今朝のニュース、見た?」
「……ああ、メールで言ってた車のAIのやつ?ちょっとだけ」
「桐原、株価ストップ高だったらしい。世界の革新企業リストにも名前載ったってさ」
「へえ……すごいね」
「なあ、これ……俺、やってよかったよな。社会に届いてる感じするっていうか……“やっと結果出た”っていう実感、あるんだよ」
言いながら、自分でも高揚してるのが分かった。
少しだけ息が弾んでる。声も自然と強くなる。
だけど――澪の反応は、思ってたのと違った。
「……うん、すごいと思うけど」
少し間をおいて、彼女は言った。
「でもなんか……最近、キョウくんと話してても、ちょっとだけ楽しくないっていうか 」
「……え?」
「前みたいに、どうでもいい話とか、バカみたいなことで笑ったりしなくなった」
彼女の目は、遠くの交差点を見ていた。
「難しいことばっか考えてて、ニュースとか、大人の話ばっかしてて……なんか、“いまのキョウくん”って、手が届かないとこにいるみたいでさ」
ミルクティーのプルタブをいじる手が、カチ、カチ、と音を立てた。
「ごめん。別に責めてるわけじゃない。すごいのは分かってる。偉いなって思ってる。でも……ちょっと、さみしいっていうか……」
その言葉に、俺は返す言葉が見つからなかった。
(俺は……すごいことをしてると思ってた)
それで、もっと褒められると思ってた。
澪にも、きっと喜んでもらえると思ってた。
でも、俺が見ていた“成功”と、
彼女が求めていた“キョウくん”は、別のものだったんだ。
駅前の騒がしさの中で、風の音が妙に耳に残った。
「……うん、ごめん」
それだけ言って、俺は缶の中のミルクティーを一口すすった。
苦味だけが、やけに強く残った。
「……なんか、前はもっとくだらなかったよね」
澪がそう言って笑った。
「授業中プリントに落書きして、先生に怒られたり。意味もなく廊下走って、床で滑ったり」
「……うん、あったな、そんなの」
思い返して、自然と笑みが浮かんだ。
俺たちは、もっと“普通の中学生”だった。
それがいつの間にか――
「今のキョウくんは、なんか……自分で“進んでいくしかない”って顔してる」
「……」
「そういうの、ちょっと見てて怖いんだよ」
澪の声は穏やかだったけど、その分、静かに刺さった。
彼女は俺を止めたいわけじゃない。
でも、手を伸ばしても届かなくなることが、怖いだけなんだ。
自分がやっていることが、良いことなのはわかっている。
でも、それが誰かと“並んで歩く”ことを、少しずつ難しくしている。
「……ごめん」
それしか言えなかった。
いつもは手をつないで帰るのに、今日はそうしなかった。
ポケットに入れたままの手が、やけに重たく感じる。
隣を歩く澪も、どこか少し遠いところにいる気がした。
手を伸ばせば、きっと届く。
でも、今の俺にはその勇気がなかった。
二人のあいだに空いた小さな距離が、じわじわと胸に染みてくる。
* * *
夜風が冷たくなってきたころ、自宅に戻った。
玄関のドアを閉めたそのとき、携帯電話の着信音が響いた。
画面には「牧原さん」の表示。
通話ボタンを押す。
「……ああ、恭一くん。今、ちょっと話しても大丈夫か?」
「はい、何かありました?」
一拍の間。そのあと、相手の声がわずかに低くなった。
「NSAから正式に連絡が入った。“あの技術を提供してほしい”とのことだ」
「……え?」
「NSA――アメリカの国家安全保障局だよ」




