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84話 side 15 レシピ本っ……!!

「ねえ、バスク風チーズケーキのレシピ、全然伸びてないんだよね」

リビングにいる息子が唐突に言う。


「へえ、そうなの」

「絶対バズると思ったのに。あと、マリトッツォも」


朝ごはんの準備をしながら、私はぼやくように言った。最近の私の“日課”は、レシピサイトのレシピをチェックすること。


サイトそのものは恭一が作った。あの子、パソコン関係は本当に妙に詳しい。


毎日せっせと新しいレシピを追加して、公開して、それで満足しているみたいだけど……こっちはそのレシピの“中身”を見ては、日々驚かされてばかり。


ある日、出版社の担当の田中さんとの打ち合わせ中に、彼女が何気なく言った。


「そういえば、サイトに載ってた“油淋鶏”、あれ、すごく評判いいですね。ぜひレシピ本にも入れたいです」


「……あ、はい。もちろん、大丈夫です」


そう返したものの――内心は大混乱。


(ゆーりんちー、なにそれ……?)


その場では笑ってごまかしたけど、帰ってから恭一にどんな料理か訊いた。

それ以来、レシピの内容を一つ一つ確認するのが、なんだか私の仕事になってしまっている。


(バスク風……バスクってどこ?スペイン?それとも調味料の名前?まりとっつぁ……それって銭形警部の仲間?)


とにかく、最近のレシピはやたらと横文字が多い。


レシピサイトを作ったときは、肉じゃがとか、豚汁とか、そういう定番の料理ばっかりだったのに、最近はネタ切れなのか聞いたことないもののレシピばかりを書いてるみたい。


ピンポーン。

チャイムの音が鳴った。


(あら、誰かしら)


玄関まで出ていくと、差出人は――ヤマダ出版社。あぁ、そういえば、田中さんが「サンプル本が刷り上がったので、お送りしますね」と言っていたんだった。


私はすぐに受け取り、書留の封筒を手にキッチンへ戻る。

いよいよ形になったんだわ……。


「恭一〜! レシピ本、来たわよー!」


「はーい」


ソファで寝転がりながら適当に返事する。


まったく、当の本人はのんびりしたものね。

ここまできて、いまだにレシピ本そのものにはほとんど関心がない。


「母さん好きにしていいよ。それか出版社に任せたら?」なんて、言ってたっけ。


この子ったら、ウェブサイトの運営の方が楽しいらしくて、紙の本にはまったく興味が湧かないらしい。


でもその「紙の本」のために、こっちは何回出版社に通ったことか。

打ち合わせに、撮影に、確認作業。言われたとおりにエプロンを持参して、キッチンスタジオにも立った。


料理なんて、いつも家で作ってるのに、カメラを前にすると途端に手元がぎこちなくなるのよ。

照明も暑いし、足もむくむし、それでも「自然な笑顔をお願いします」と言われれば、引きつった笑顔を必死にキープして……。


はあ……まったく、息子のためとはいえ、ここまでする羽目になるとは。


私は封筒の糊をゆっくりはがし、中から厚みのある見本誌を取り出す。ぱらっと表紙が見えたその瞬間――




「……えっ、な、なによこれ!?」




思わず声が裏返った。

表紙いっぱいに並ぶ、美味しそうな料理。唐揚げ、パンケーキ、豚汁、肉じゃが……。

そこまでは、まあ想定の範囲内だった。


でも、その料理たちの“真ん中”に――


私の顔が、ドン。


「ちょ、ちょっと!? なんなのよ!?!?」


目を見開いて固まる。なにこのアップ!? お玉を持って、なんともいえない微笑みを浮かべた私の写真が、ど真ん中に据えられている。


サイズがでかい! 顔面がでかい! もう毛穴まで見えちゃうじゃないの!!


しかも周りの文字がまた、やたらと攻めてる。


『天才主婦、降臨!』

『ネットレシピ界の女王!』

『平成の料理研究家が贈る、稀代のレシピ!』


ちょっと待って、これ私なの!? えっ、ほんとに!?

確かにね、撮影のときは色んなポーズをとった。

お玉を持ったり、鍋の蓋を開けて笑ったり、冷蔵庫を開けて振り向いたり……


でも、私はてっきりそういう写真は巻末の「あとがき」ページとか、プロフィール欄にちょこっと使われるものだと思ってたのよ!


なんでこんな、堂々とセンターに!? まるでアイドルの写真集みたいじゃない!


「……いや、違うのよ、そういうんじゃないのよ……」


震える指先でそっとページをめくる。中身も、あらかじめ見本で確認していた通りに仕上がっている。


レシピのレイアウトも見やすくて、写真もきれい。

――きれいなの。料理はね。


でも問題は、やっぱりこの表紙だわ。

何この堂々たる“主役感”。私はそんなキャラじゃないのよ!


そこら辺にいる、ただの主婦なの!

なのに、こんな「料理の鉄人」みたいに。


「……これ、友人・親戚に見られたら絶対何か言われるわね……」


私は本をそっと閉じて、深呼吸をした。


――これは、覚悟が必要かもしれない。



* * *



あれから三週間――とうとう、発売日がやってきた。

ついに、この“例の本”が店頭に並び始めたという話を聞いて、私は覚悟を決めて、新宿駅前の大きな書店へ向かった。


全国でも有名な大型店。雑誌も書籍も、料理本だってフロア丸ごと揃ってるという噂の。


「まさか平積みなんて、ね……」

そんなふうに、不安を覚えながらエスカレーターを上がる。


料理レシピコーナーに足を踏み入れた瞬間――


甘かった。


そこには、ずらりと平積みされたレシピ本。そして数冊が立て掛けられてる。

まるで東野圭吾が本を出したときのような並べ方……



思わず二度見した。


「ちょっと待って、こんな……堂々と……」


しかもそのすぐ上には、POPまで用意されていた。


【美人主婦のお手軽簡単レシピ♪】

【家庭料理にフィーチャーした、今話題の1冊!】


えっ、なにそれ。誰が書いたの、そのキャッチコピー。

美人主婦って、いやいやいやいや、私、そんなこと一度も言ったことないのに……



あまりのことに、思わず近寄ることもできず、一つ前の本棚のに隠れて覗き込むような姿勢で遠巻きに眺めてしまった。


たまたま近くにいたご婦人が、私の本を手に取ってぱらぱらとページをめくっていた。その様子を見て、嬉しいような、でも穴があったら入りたいような、なんとも言えない感情に襲われる。


「あら、この人、笑顔が素敵ね」


なんて声が聞こえたときには、私はそっと棚の影に隠れてしまった。

結局その日は、何も買わずにそそくさと店を出た。


本当はね、記念に一冊だけ、自分で買って帰ろうと思ってたのよ。ちょっとした“家族の歴史”として。


でも、あの表紙が正面に並んでいる光景を見たら……無理だった。

帰りの電車では、自分の顔が何度も脳裏に浮かんできて、吊り広告にすらビクビクし

ていた。


そして翌日。


案の定、友人や親戚などから連絡が来た。


「ちょっとあなた、すごいじゃないの! 本になったって本当?」

「うちの近所の本屋にも置いてたわよ! もう、びっくりしたわ〜!」

「“美人主婦”って紹介されてたけど……ふふっ、昔から顔立ちは整ってたもんね〜」


……頼むから、その“ふふっ”の部分、控えめにしてほしい。


そして極めつけは、出版社からの一本の電話。


「もしよければ、サイン会を開いてみませんか?」


……え?


え?


サイン会? この私が???


一瞬、何かの聞き間違いかと思った。いや、そう思いたかった。


「いえいえいえ! ちょっと、それは……無理です、ほんとに!」


慌てて丁重にお断りした。


だってサイン会なんて、芸能人や作家さんがするものでしょ? 私みたいな、ただの主婦が、書店の一角でサインして、笑顔で写真撮られて、なんて……無理無理無理!


それに、サインって、そもそもどう書けばいいの? 自分の名前そのまま? 

サインなんて考えたことないし……


そもそも誰がもらって嬉しいのよ、私のサインなんて。


この電話のあと、台所でひとり「ふぅ……」とため息をついていたら、恭一がのんきに階段を降りてきた。


「おー、そろそろレシピ本の売れ行き見てみようかな〜。昨日、書店でバズってるって聞いたし」


(あんたのせいで、こっちはとんでもない事になってるのよ!)


……と言いたい気持ちを、ぐっと飲み込んだ。




* * *




ある土曜日の午後。


チャイムが鳴ったとき、私はちょうど洗濯物をたたんでいるところだった。ドアを開けると、そこに立っていたのは――澪ちゃん。


恭一の幼馴染で、小さい頃からよく遊びに来ていた子。

最近、ちょっとオシャレになって、でも話し方は昔と変わらず礼儀正しくて、私から見ても本当にいい子。


内緒にしてるみたいだけど、まあ、なんとなくわかるわよね。

恭一と付き合ってるってことくらい。

あの子、最近いつも少しだけ口角が上がってる。恭一も目の奥がやわらかくなったというか……


親って、そういうのに意外と敏感なのよ。


「あら、いらっしゃい。恭一、今日は出かけてるのよ。なんか、会議があるとかで……」


そう言うと、澪ちゃんはにこっと笑って――


「今日は、おばさんに用があって来たんです」


え? 私に? なんだろう? と思った次の瞬間。


彼女の手元に、見覚えのあるカバーが見えた。


まさか。


まさかまさか。


「……その本……」


「はい。あの、これ……すごくよかったです」


恥ずかしさで心臓がぎゅっとなる。表紙には、例の“あの写真”。私の顔。笑顔。

そして「天才主婦」の文字。


(買ったの!?なんで知ってるの!? 澪ちゃんも……私が表紙って……!)


穴があったら入りたい、とはまさにこのことだった。

そして、彼女が口を開いた。


「あの……もしよかったら、これに……サイン、いただけませんか?」


「……っ」


言葉が詰まった。


サイン? 私が? 澪ちゃんに?

いやいやいや。私たち、知ってるじゃない。


何年も前から、近所だし息子と同い年であなたが産まれた時からの付き合いなのに!


その私が、ここに“サイン”??


「い、いるの? サイン……なんて」


「……ほしいです。是非」


澪ちゃんは、ほんの少し頬を赤くして、でも目をそらさずにそう言った。


なんというか、その言葉の裏に、“尊敬”とか“感謝”とか、そういうまっすぐな気持ちがぎゅっと詰まっている気がして、私は――


負けた。


小さくうなずき、マッキーを取りに行った。

手がちょっと震えてた。


恭一が「母さん、筆圧だけは強い」ってからかってたのを思い出す。

字も、いつもの走り書きじゃダメな気がして、少しだけ丁寧に名前を書いた。


名前の下に「ありがとう」の一言も添えてしまった。


渡したとき、澪ちゃんがすごく嬉しそうに笑ったのが、胸に染みた。


その後、紅茶を淹れてふたりで少しだけおしゃべりをした。

澪ちゃんは「今日のクックメニュー、唐揚げやってみます!」なんて楽しそうに話していたけれど、私はずっと、テーブルの上の本が気になっていた。


その日の夕方――


やっと、恭一が帰ってきた。

ちょっと疲れた顔。でも、どこか満足げな表情。


「会議、無事に終わったの?」


「うん、いろいろ話し合ってきた。新企画の件で盛り上がってさ」


ふぅん、とだけ返しておいたけど……この子、本当に楽しそうにやってる。

まったく……私は毎日この本のせいで精神力を削られてるというのに……


「母さん、次は“タピオカミルクティー”のレシピ出すよ! 絶対伸びるって!」


「……は?」


口から出たのは、そんな情けない声だった。

タピオカ? 今さら? あんたが生まれた頃に流行ったやつよ!? ブームはもうとっくに去ったでしょ?


それを今、あえて掘り起こす? 伸びると思ってるの?


パソコンやネットのことになると、この子は本当に目がキラキラする。ロジックで物を語るけど、どこかズレてるところもある。


(まったく……そういうとこは、ほんと甘いんだから)


私は紅茶を一口飲みながら、小さくため息をついた。

もう、しょうがない子なんだから。



いつもはサイドストーリーで章の終わりですが、12章はあと少し続きます

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