82話 影だけが伸びていく午後
12月の朝。冷え込むリビングでこたつに入っていた俺は、テレビの画面を見つめたまま、思わず声を漏らした。
「……え、今の、桐原の名前出たよな?」
朝のニュース番組。いつもなら芸能人のスキャンダルやスポーツ結果が流れてる時間帯に、スーツ姿のアナウンサーが真剣な顔でこう言ったのだ。
「桐原自動車が、インターネット通信規格“HTTP/2”をベースとした新しい接続システムを正式に発表。すでに一部の業務システムには導入が進んでおり――」
お茶の間でその名前が普通に報道されているの、なかなかにバグってる光景だ。
「HTTP/2ってよくわかんないけど、インターネットが速くなるってこと?」と、コメンテーターが言ってスタジオの空気がふわっと緩む。
そう、まさにその通り。よくわかんないけど、速くなるやつ。
とはいえ、今テレビで紹介されてるのは“HTTP/2”だ。
俺が桐原に渡したやつのひとつ前。言ってみれば“布石”みたいなもので、こっちはもうその先の“HTTP/3”の実装に取りかかってる。
だけど、世間的にはこの“2”だけでも、十分すぎるくらいの衝撃らしい。
画面が切り替わり、都内の桐原関連企業の担当者インタビュー。
「サーバー側の処理が明らかに軽くなりまして。メール送信や社内データベースの動作が、体感で2〜3倍は速くなったように感じます」
うん、そりゃそうだ。
HTTP/1.1では、一つのことを終えてから次、という順番待ち方式だった。
でもHTTP/2では、それをまとめて並行して処理できる。
言ってみれば、“1車線の渋滞道路”から“合流OKの高速道路”になったようなもの。
しかも、それを業務に使えば効果は顕著に出る。
ニュースの字幕には《通信の常識が変わる?》なんて派手な文字が踊っていた。
番組では「これまでの通信と何が違うのか?」という解説コーナーが始まり、CGで通信回数の違いや並列処理の概念を簡単に説明していた。
「ふーん……こうやって見せると、けっこう分かりやすいな」
俺が口にしたこの技術を、今まさに全国の視聴者が“初めての未来”みたいな顔で見つめている。
そのことに、なんだか不思議な感覚を覚える。
ちょうどそのとき、母さんが台所から声をかけてきた。
「ニュース見てる?桐原の名前出てたでしょ」
「うん、見てる。けっこうでかい扱いだね」
「今朝の新聞にも載ってたのよ。見出しに“通信革命か?”って書いてあったわよ」
そう言って、新聞をリビングのテーブルに静かに置いてくる。
朝日新聞、経済面。
《桐原自動車、通信改革に名乗り HTTP/2の導入で業務効率大幅向上》
企業の広報資料みたいな見出しだが、扱いは大きい。
記事には、“エンジン以外の分野でも革新を進める桐原”として、情報システム部門の存在感を強調するような文言が並んでいた。
「まさか、自動車会社のニュースでこんなにワクワクする日が来るとは……」
新聞の文字を追いながら、俺は軽く笑った。
けど――どこを読んでも、そこに“俺”の名前はない。
当たり前だ。契約上も秘密保持だし、そもそも“中学生が作りました”なんて発表するわけがない。
だけど、誰かが分かっていればいい。
その“誰か”が、たとえば母さんだったり、叔父だったり、あるいは――澪だったりすれば、それだけでいい。
「お母さん、これ……見てても、意味わかる?」
「半分くらいね。要するに“すごい早くなった”ってことでしょ?」
「まあ、そんな感じ」
「でも、すごいじゃない。恭一も……関係してるんでしょ?」
「関係っていうか……ちょっとだけね」
正確には“中心”だけど、そこはぼかしておく。
母さんはいつものようにコーヒーを飲みながら、テレビに目を戻した。
その画面では、コメンテーターが少し混乱しながらこう言っていた。
「でも、これ自動車会社の技術ってことは、車にも応用されるってことですか?」
「そうですね。車載インターネットとか、地図更新、あとは工場の設備管理……いろんなところで使えると思います」
「すごい時代になってきましたねえ」
本当に“時代が変わる”その一歩目が、今この瞬間に、全国に放送されてる。
けど、その起点は――ここ、俺の部屋。
中学三年生の部屋の、古いデスクトップPC。
「……なんか、変な気分だな」
この手元から出たものが、企業を動かし、社会を変え、テレビや新聞の話題になっていく。
それを、自分はこうして、コタツでミカン食いながら眺めてる。
これは、夢じゃない。
現実だ。ちょっとだけズレた現実。
テレビでは最後に「今後の動きにも注目が集まります」と言って、次の話題に移っていった。
* * *
放課後、澪と並んで歩く帰り道。
日差しは傾きかけていて、アスファルトに長い影が伸びていた。
特にどちらから話すでもなく、しばらく無言が続いていたけど、ふとした拍子に俺が切り出した。
「……あのさ、テレビで桐原自動車の話、見た?」
「うん? なんか、ちょっとだけ」
「HTTP/2ってやつ。あれ、俺が作った……っていうか、関わってる」
「へえ、そうなんだ」
淡い反応。でも、俺は気にせず続けた。
「今のネット通信って、わりと遅くてさ。HTTP/2って、それを一気に改善する技術で……」
自分でも分かる。
言葉の熱量が、どんどん上がっていた。
PDFにまとめたばかりの構想。
これを誰かに話すのは初めてだったから、きっと“わかってもらいたい”って気持ちが出すぎてたんだと思う。
だけど――澪は、少しだけ困った顔をしていた。
「……なんか、ごめん。難しい」
「そっか……」
「うん。でも、すごいことだとは思うよ。ネットが速くなるのって便利だし……」
言葉は優しい。でも、どこか遠かった。
俺の中の高ぶりが、ひとりで空回ってる気がした。
「……まあ、そうだよな。ごめん、ちょっと空回ってた」
「そういう意味じゃなくて……」
澪が言葉を探しているのが分かった。
「なんか、最近のキョウくんって、どこか遠いところにいるみたいで。たまに、話してても追いつけないっていうか……」
「遠い、って?」
「話を聞いてても……たまに、キョウくんの背中が遠くに見えるの。
こっちはまだ立ち止まってるのに、どんどん先に行っちゃってるみたいな……そんな感じ 」
風が吹いて、澪の髪が揺れた。
俺はその言葉を、正面から受け止めるしかなかった。
(……ああ、また俺、ひとりで走ってたんだな)
誰かのためにって思ってた。でも、目の前の“誰か”を置いてけぼりにしてたのかもしれない。
「……変な話ばっかして、ごめん」
「ううん。キョウくんが頑張ってるのは、ちゃんと伝わってるよ」
そう言ってくれた声は、優しかった。だけど、どこか距離があった。
信号が青に変わる。
澪はそのまま横断歩道へ歩き出した。振り返らずに、ぽつりと言った。
「キョウくんは、ほんとにすごい。でも……すごすぎて、たまに分かんなくなる」
夕陽に伸びた影が、交差点で分かれていく。
俺は立ち止まったまま、それを見送った。
そして、自分の足元に伸びた影が――
やけに細く、頼りなく見えた。




