81話 技術と秘密
11月の午後、俺は自宅の自室で、いつものように数学の宿題に向かっていた。
(因数分解、簡単すぎる……)
チャットGPT──いや、Verdandyを封印しても、数字に向き合うのは好きだった。ノートの端にちょこちょこと式を書き足していると、ポケットのケータイが震えた。
表示された名前を見て、一瞬、背筋が伸びた。
「牧原さん……?」
通話ボタンを押すと、いつもより少しだけ浮ついたような声が、受話口から響いた。
「葛城くん! よかった。いま少し話せるかい?」
「はい、もちろん。何か問題でも……?」
「いや、逆だよ。とても、いい話だ」
その言葉に、体の力がふっと抜けた。
牧原さんが言うには、桐原社内で行われているHTTP/3の初期導入テストが、予想を遥かに超える好成績を出しているらしい。
「更新ファイルの配信速度、車載アップデート、サーバー負荷……すべてが、今までと段違いだったよ。
Brotliの圧縮効果も素晴らしい。“魔法かと思った”とまで言ったエンジニアもいたくらいでね」
電話越しなのに、声の向こうにある笑顔がはっきりと浮かぶ。
「ありがとうございます。でも、魔法じゃありません。技術です」
俺がそう答えると、牧原さんは少し笑って、静かに言った。
「君は、本当にすごいことをしてくれたよ。たぶん我々は、この10年で初めて――“未来の空気を、自分の手で掴んだ”気がしたんだ」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
(……未来に、触れた)
小さな部屋の中で、自分の作ったものが世界に波紋を広げている。
誰かの仕事を変え、システムを変え、社会の流れを、ほんの少し前に進めた――そんな実感があった。
「ありがとう、葛城くん。このまま、実用化まで突っ走ってみせる。社長にも、すでに話してあるよ」
「……そうですか。ありがとうございます」
電話を切った後、しばらくのあいだ、数学のノートは開いたまま手が止まっていた。
あの小さなPDFが、社会を動かす一歩になったかもしれない――
その重みを、俺はじっと噛みしめていた。
一階へ降りると、リビングに叔父の姿があった。
スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくって新聞を読んでいる。大学から早めに戻ったらしい。
「おう、来てるぞ」
「うん。いらっしゃい」
叔父は腕を組んで、俺をまっすぐ見た。
「Verdandy KKの導入が、今日時点で200件を超えたそうだ。教育機関ではとても使いやすいと評判だ。正直、今の日本で、単独のソフトがここまでスピード採用されるのは異常だ」
俺はうなずく。けど、誇らしさよりも、どこか落ち着かない感情が胸をくすぶっていた。
「それより恭一、HTTP/3って……どうやって知った?」
少し間を置いて、叔父が静かに問いかけた。
「え?」
「いや、まあ……普通に考えて不思議なんだ。HTTP/2すら、世界の技術者は作れなかった。HTTP/1.1が完成されたものと疑わない技術者もいる。
それを、2を超えて3。しかも社内導入できるレベルで、最初から完成されてた」
叔父の目は、穏やかだけど、試すような色があった。
俺は、少しだけ視線を逸らして答えた。
「……独学で調べた。ネットと資料で、いろいろ」
「独学、ね」
そこで叔父は軽く息を吐いた。
「恭一。俺は、お前を疑ってるわけじゃない。ただ――」
言葉を切って、ソファの背にもたれた。
「全部は話してくれないんだな、って思ってる」
その言葉に、胸がわずかに締めつけられる。
「別に、全部教えてくれとは言わない。お前にはお前の考えがあるんだろう。
ただな……会社も、そして俺も、お前を“天才中学生”として世に出す気はなかった。
Verdandyの成功がここまで大きくなった今、なにか問題が起きれば、“中学生が作った”というだけで、叩かれるリスクもある」
「……わかってる」
俺は短く答える。
「俺だけじゃなくて、桐原の人たちだって、内心では思ってるはずだよ。
“これ、どうやって作ったんだ?”って。でもお前はそれに一切答えてない」
叔父は俺が以前から不安に思っていたことを正論でぶつけてきた。
「そう思われるのは仕方ない。でも、“信用してない”なんて言われるのは……正直、きついよ」
我ながら、子どもっぽい反応だと思った。
けど、どうしても言い返したくなった。
説明できない理由がある。
未来のものなんて信じてもらえないかもしれない。
でも、それでも――言った瞬間に終わってしまう何かが、確かにある。そんな気がしていた。
「Verdandy を作ったのも、HTTP/3の理論を出したのも俺だ。PDFにして、ソフトを提供したのも……全部、自分でやった。嘘なんて、ひとつもついてない。ただ……“全部を説明すること”が、正しいとは限らないんだ」
リビングに、重たい沈黙が落ちる。
叔父は腕を組み直し、少し目を伏せたあとで、低く言った。
「言いたいことは、分かる。けどな……
正直、“中学生がひとりで世界を変える発明を何個もした”っていう方が、よっぽど信じがたいんだ。
それより“お前が天才ハッカーでどこかから技術を盗んできた”って説のほうが、まだ現実味がある」
その言葉に、胸がざらりとする。
「……そう思われるのも、分かるよ。でもさ、俺にだって……言えない理由があるんだよ」
その場に、さらに重苦しい空気が広がりかけたとき――
「まあまあ、二人とも。そのへんにしてちょうだい。夕飯前なんだから」
奥のキッチンから、さらりと割って入る声が響いた。
母さんだった。エプロン姿のままリビングに来る。
「……別に、言い合ってるつもりじゃ」
「でも、空気はピリピリしてたわよ?」
そう言って、母さんは苦笑しながら俺の前に湯のみをそっと置いた。
立ちのぼる湯気が、少しだけ張り詰めた空気を溶かしていく。
「恭一。あなたなりに、考えてることがあるのよね?
それは、お母さんにもちゃんと伝わってる。おじさんだって、心配してるだけなのよ」
母さんの言葉に、少しだけ胸の奥がゆるむ。
「……うん。わかってる」
「全部話せってことじゃないわ。
でも、“一人で抱え込みすぎない”ってこと。それだけは、覚えておいて」
やさしくて、でも芯のある声だった。
叔父はソファにもたれて、ふぅと長い息を吐いた。
「……悪かったな。ちょっと、言いすぎたかもしれん」
俺は目を伏せながら、こくりと小さくうなずいた。
(秘密を抱えるって、こういうことなんだな)
誰にも言えない。けど、嘘もつけない。
そのあいだに立ち尽くす、この不安定な場所――
そこに、自分は立っている。
言えないことがある。それを誰かに問い詰められる。でも、それでも――俺はまだ、守らなきゃいけないものを握っている。