79話 side14 日本のラマヌジャン
会議室の時計が、開始時刻の5分前を指していた。
桐原自動車・技術開発部の三枝修一は、資料を閉じて軽く息を吐いた。
(……いったい、どんな人物なんだろう)
今日この会議室に現れるのは、Verdandy KKの開発者――たった一人で、あの完成度の高い文章生成AIを作り上げたという“謎の個人”だ。
(正直、信じがたい話だよな……)
けれど三枝は、心のどこかでその人を尊敬していた。たった一人で、桐原自動車の研究陣をここまで驚かせる技術を作れるという事実。それだけで十分すぎる。
(どこかのベンチャーの社長か? あるいは……シリコンバレー帰りの天才エンジニアか?)
自然とそんな期待が膨らんでいた。
実際、三枝がVerdandy KKを初めて試したとき、その出力を見て背筋が伸びた。
最初はよくある文章生成ソフトの一種だろうと、さほどの期待はしていなかった。
だが、数件の指示文を投げてみたとき――その出力に、思わず息を呑んだ。
内容は的確、構成に無駄がなく、語彙の精度も異常なまでに高い。それでいて、どこか人間らしい柔らかさすらあった。
「これは、本物だ……」
驚きとともに、素直に「すごい」と思った。自分の技術者としてのプライドは、むしろその瞬間、心地よく刺激された。
あれから数日。ついに今日、その“中の人”に会える。
それがどんな人物なのか――いま、三枝の中でいちばんの関心事だった。
会議室に入ると、数人の幹部社員と、開発部から選ばれたスタッフが集められていた。
隣の牧原課長が、三枝の耳元で囁く。
「……ひとつ注意点。企業秘密として、コードの構造や中核アルゴリズムには触れないでほしい 、とのことです」
「は?」
思わず聞き返しそうになるのをこらえて、三枝は黙った。
そして、扉が開いた。
現れたのは、スーツ姿の大人ではなかった。
まだ幼さが残る中学生だった。
「……なにかの間違いじゃ……」
その場にいたものたちが同じ表情をしていた。
三枝も、数秒だけ言葉を失った。
(まさか、こんな……子供が?)
いや、見た目で決めつけるのはよくない。
それはわかっていた。だが、三枝の頭に浮かんだのは、最悪の可能性だった。
(どこかの企業のサーバーに侵入して、コードをコピーしたのかもしれない。マイクロソフトか、IBMか、あるいは……)
ここ数年、シリコンバレーでは大規模な情報流出も少なくなかった。
情報さえあれば、“それらしいもの”を組み合わせて見せることは、理屈上は可能だ。
(本当に大丈夫か……)
心の中に、疑念と警戒が同時に芽生えていった。
それでも三枝は、目の前に座った少年――葛城恭一を観察し続けた。
その目の奥に、ただの悪戯心では説明できない“何か”があることを、見逃さなかった。
「では、契約内容の概要をご説明します」
牧原の声が、会議室の静寂を破った。
中学生――葛城恭一が説明するのではなく、あくまで“技術顧問としての立場”で迎えるという前提で、説明は進められていった。
だが、問題はその金額だった。
「……年間七億円です。顧問料と、Verdandy KKの法人利用ライセンス料を含めた金額になります」
一瞬、会議室の空気が固まった。
誰もが、今の言葉を聞き間違えたのではないかと疑った。
三枝も、すぐ隣にいた同期の技術主任と目を合わせた。
(……七億!?)
心臓の奥がドクンと跳ねた。
目の前にいるのは、明らかに未成年――いや、子どもだ。
いくらソフトの性能が高いとはいえ、企業が中学生に七億円を払う?
これはもう、夢の話か、あるいは悪夢か。
同僚が、小声でつぶやく。
「なあ……もし仮に、これがマイクロソフトかどこかの技術をパクったものだったら……うち、やばいんじゃないか」
三枝も、小さくうなずいた。
(本当に、裏を取ったのか? 葛城って少年は信用できるのか?)
もし裏に何かの侵害があったら――それを使った我々が責任を問われる可能性もある。
(これは……軽い話じゃないぞ)
会議室の一角で、静かな動揺が広がっていくのが分かった。
数人の役員は無表情を装っているが、手元の資料を握る手がわずかに震えていた。
「……冗談であってほしいな」
三枝は、胸の内でそうつぶやいた。
だが、この“少年”の表情に、冗談ではないことだけは伝わってきてしまうのだった。
* * *
数日後、日々の忙しさで、その中学生を忘れかけてた頃に、技術研究部に、書留で厚めの封筒が届いた。
差出人欄には、「葛城 恭一」の名前。
「……あの中学生からか」
中身は、1部の印刷された資料だった。表紙にはこう記されている。
『HTTP/3通信構造とBrotli圧縮の基礎理論──桐原自動車向け技術共有資料』
作成者:Verdandy KK 開発責任者
(共有資料……?)
三枝は資料を開き、最初の3ページで言葉を失った。
喉から手が出るほど欲しかったHTTP/2についてはごく簡潔に、“既存技術の中継ぎ的ポジション”と説明されており、詳細な検証は省略されていた。
「おまけ」として添えられていたその解説文すら、既存のRFC草案にほとんど匹敵する完成度だった。
だが、驚くべきはその先だった。
HTTP/3――その構成要素であるQUICプロトコル、コネクションの暗号化状態とハンドシェイクの過程、さらにその上でBrotliを圧縮エンジンとして併用することによる転送効率の向上――
理論の導入から応用例まで、すべてが破綻なく、しかも読みやすく書かれていた。
「なにこれ……どこの大学の研究論文だよ……」
思わず声が漏れた。
横にいた後輩の石田が、資料をのぞき込んでぽつりと呟いた。
「これ、実装できますかね……ていうか、これ本当に“設計書”ですよね。論文じゃなくて」
「いや、そうなんだよ。理論だけじゃなくて、最初から“現場に落とす”前提で書かれてる。しかも、俺たちが今ようやく調査に入ろうとしてた領域が、もう完成してる」
ページをめくる手が震えた。
注釈、サンプルコード、応答時間の比較実験、TLS1.3との連携処理。どれもが桐原の現状に「合いすぎている」ほどフィットしていた。
「……これって……どうやって手に入れたんでしょうね」
石田が、誰にともなくつぶやく。
誰かが苦笑まじりに「……どこかの大学の秘密研究チームじゃないか?」と冗談を言ったが、笑いは起きなかった。
そのPDFが技術部に回された日、部屋の空気は明らかにいつもと違っていた。
「なにこれ、ほんとに中学生が書いたの?」「……世界最高峰レベルなんだが」
技術者たちは、目の前の文章に驚き、そして言葉にならない戸惑いを感じていた。
そのとき、会議室の隅で黙って資料を読んでいた年配の社員が、ぼそりと呟いた。
「……ラマヌジャン、だな」
「え?」
「ラマヌジャン。インドの数学者だ。証明もなく、突拍子もない公式をいくつも発表した。だが、彼の式は正しかった。証明するのは後世の人間――まるで預言のように」
(ラマヌジャン……そうか。まさに)
常識を置き去りにするほど革新的で、かつ天才的な数式の数々に、ネットでは冗談まじりにこんな説がささやかれている。
『ラマヌジャンは未来で数学の公式だけ丸暗記して、タイムスリップしてきたんじゃないか?』
もちろん冗談だ。だが、その冗談に、どこか本気を感じさせてしまう“異質さ”が、あの少年――Verdandy KKの開発者にはあった。
その日を境に、社内では静かに、葛城恭一のことを“日本のラマヌジャン”と呼ぶ者が現れ始めた。
彼の提出した一冊のPDF――それはただの技術資料ではなく、“何十年も先にある未来”の、手触りだった。
三枝はふと、会議室で初めて葛城恭一と対面した時のことを思い出していた。
――静かな会議室、背筋をぴんと伸ばし、躊躇なく言葉を選びながら説明する少年の姿。
最初こそ「どうせ裏で誰かが操ってる」と思っていた。だが、あのときの話しぶり、視線の強さ、そして何より――“わかっている者の話し方”だった。
(あれが演技だとしたら、それはそれで末恐ろしい)
キーボードに手を置いたまま、三枝はため息をついた。
『どうやって作ったかは、聞かないでください』
そう事前に言われていたことを思い出す。
だからこそ疑念も抱いた。マイクロソフトか、Googleか。どこかの先端を覗き見てコピーしたのではないか。
それとも、海外の論文を盗んだのか。何か――不正な手段で手に入れた技術なのではないか。
……でも、違った。
この資料を見たあとでは、そんな考えはただの“負け惜しみ”に過ぎないと、自分でも分かっていた。
「HTTP/2はおまけです」
そんな一文が、静かに脳裏にこだまする。
まだ誰も踏み込んでいない場所に、先に足を置いている人間がいる。
これはシリコンバレーのどの企業も思いついていないその先の技術だ。
しかもそれが、あんな小さな肩に乗っかっているなんて。
三枝はモニターに映るVerdandy KKのロゴをじっと見つめた。
(……本物の天才って、いるんだな)
自分たちがこれからやろうとしていたことを、先に、そしてはるかに洗練された形で見せてくれた。
「どうやって」ではなく、「どう生きてきたら、これが作れるのか」を聞きたくなった。そう、素直に思った。
パソコンの画面には、夕日色の反射が映っていた。
三枝はその光の中で、ゆっくりと深くうなずいた。
「……すげえのが現れたな」
小さくつぶやいて、モニターを閉じた。
一人の技術者として。




