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71話 side 12 こんにちは、ヴェルダンディ

朝の光が差し込むキッチンで、善三は冷蔵庫の扉を開けたまま、じっと中を見つめていた。


(……何を取りに来たんだっけ?)


73歳になったらやはり物忘れが激しい。――いや74歳だったか。


卵か牛乳か、あるいは納豆だったか。

思い出そうとするたびに、霧のように思考が逃げていく。

とりあえず扉を閉じたが、数歩歩いたあと、また冷蔵庫を開けてしまった。


「……ちがうな」


自分に聞こえないような小さな声が漏れる。

次は財布を探す。机の上にも、カバンの中にもない。

クローゼットの引き出しまで開けて、ようやくソファーの横に落ちているのを見つけたときには、軽く汗をかいていた。


リビングの壁に貼ったホワイトボードには、自分の字で「牛乳・手紙・予約」と書いてある。


(……手紙? 誰宛だ……)


「予約」の文字を見て、病院だったか、何だったかと首をひねる。



「まいったな……」


今日はヘルパーさんが来る日だ。あとで聞けば済む話だが、それができない。


前にも同じことを尋ねた記憶が、ぼんやりと残っている。

あの時、彼女は笑ってくれた。でも、笑みの奥の「またか」という気配を、善三は見逃さなかった。


だからこそ、もう迷惑はかけたくなかった。

息子にも、孫にも――「まだ大丈夫」と思われたくて、なんでも一人で済ませようとする。


だが、忘れるというのは、人知れず心を削っていくものだ。


(……どうしたもんかね)


善三はゆっくりとソファに腰を下ろした。

その視線の先には、ノートパソコンと、「Verdandy KK」のアイコンが光っていた。


善三はソファから手を伸ばし、ゆっくりとノートパソコンを開いた。

蓋を開けると、自動で立ち上がるソフトがある。「Verdandy KK」。最近、通信会社で役員をしている息子に教えてもらったものだった。


「……ええと、なんだったか」


軽くため息をつきながら、キーボードを叩く。

『今日って……何曜日だったかな』


数秒ののち、画面には淡々とした、けれど不思議と温かみを感じる文字が表示された。

“今日は火曜日です。ご予定は、10時にヘルパーさんの訪問、午後は特にありません”


「ああ、そうか。火曜か……ありがとう」


パソコンはもちろん返事などしない。けれど、その沈黙が、妙にありがたかった。

同じことを三度聞いても、Verdandy KKは毎回同じように丁寧に答えてくれる。

“またか”とも言わないし、“そんなの自分で覚えといてくださいよ”とも言わない。


(……ヘルパーさんに、また同じこと聞いたら、きっと優しく笑ってくれる。でも……笑いながら、目が少し曇るんだよな)



その視線が、なによりも堪える。

自分が“弱っている”と実感させられる瞬間が、一番苦しい。

だからこそ、誰にも聞けないことを、この小さな画面にそっと打ち込む。

叱られずに済む場所。迷惑をかけなくていい相手。

忘れかけていた安心感が、そこにあった。


「……ありがとな、ヴェルダンディさん」


善三は、小さく呟いた。





それから数時間後。


『今日は……何曜日だったっけな』


昼頃に善三はパンをかじりながら、ノートパソコンに向かって打ち込んだ。


   ”今日は火曜日です。朝食は6時50分にパンとヨーグルトを召し上がりました。”


「……そうか。ありがとう」


思い出せないことが増えた。それを恥じていた時期もある。

でも今は、思い出せる場所があるだけで、少し心が軽くなる。


『薬、飲んだっけ?』


   ”服用済みです。朝7時12分に血圧の薬を服用したと入力されていました 。”


「ああ、そうだ。確かテーブルの上に……」


こうやって、自分の行動を入力してれば、全部教えてくれる。


Verdandy KKは、まるで横に寄り添う誰かのように、善三の問いに応じてくれる。何度聞いても、同じように優しく。叱られない。呆れられない。

――それが、どれだけありがたいことか。


『今日は天気いいね』


   ”はい、晴れです。東京の最高気温は22度の予報です。洗濯日和ですね。”


善三は「そうかい、よかった」とつぶやいて、ひざの上で手を軽く打った。

「じゃあ、今日もしりとりでも付き合ってくれるか?」


最近は、朝食後にしりとりをするのが習慣になった。


『んじゃ、"りんご"』


   ”ごましお。”


「おお、地味な返しだなあ」


   ”お題に季節を絡めますか? それとも果物縛りにしますか?”


「気が利くじゃないか、Verdandy」


時には、計算問題も頼む。「今日はちょっと脳を動かしたいんだ」と言えば、簡単な足し算や引き算、小さな暗算を出してくれる。


(こうしてると……少しだけ、頭の働きが戻ったような気がする)


一度、「昨日の朝ごはん、何食べたっけ?」と聞いたときのことがある。

Verdandy KKは、ログを辿って静かに答えた。


”昨日の朝は、バナナとトーストでした。7時3分に「パンにバターが足りない」とコメントされていました。”


「……そっか。そうだったな。パン、ちょっと味が薄かったんだった」


過去が、記録としてではなく“対話”として戻ってくることが、これほど心を和らげてくれるとは思わなかった。

思い出すことができる。それは、年を取るごとに出てきた老化への不安を和らげてくれる。


「忘れることが減ったわけじゃないけど……思い出せるようには、なった気がするよ」


パソコンの画面は何も返さなかったが、そこにいる“相棒”が、静かにうなずいた気がした。





――――――


ある昼下がりのリビングで、善三はカレンダーを見つめていた。

赤いペンで書かれた小さな文字――「たく〇 来る」。


(……なんて書いてあるんだ?)


たしか、今日は孫が来る日だった。電話でも、そんなことを言っていた気がする。

だが――名前が、どうしても出てこなかった。


(……たく、まで出てるのになぁ)


何度も何度も、冷蔵庫を開け閉めしてみた。

扉に貼ってある買い物メモや、冷凍庫の引き出しの裏までのぞいたが、孫の名前は見つからなかった。

自分が“何か書き残した”と思い込んで、あちこちを探し回る。

けれど、何も出てこない。探していたのは記憶であって、物ではなかったのだ。


善三は、冷蔵庫をゆっくり閉めてため息をつく。


(名前くらい、ちゃんと覚えておきたかったのに)


その瞬間、胸にじんわりとした痛みが広がった。

名前を忘れたからといって、孫の顔が浮かばないわけではない。


あの大きな目、尖ったような髪型。

小さな頃からずっと、遊びに来ては「じいじ!」と笑ってくれた。

大切な、大切な存在だ。


だからこそ、名前が出ないことが――悔しかった。


善三は机に向かい、ノートパソコンの電源を入れた。

いつものように、Verdandy KKが立ち上がる。


『なあ、教えてくれるか……今日、来る予定の孫の名前。たく、ってところまで出てるんだけどな』


 ”過去のログでお孫さんの名前として出てきているのは、「拓真たくま」さんです。”


その返答を見た瞬間、善三の口元がふっと緩んだ。


「そうだ、拓真。そりゃそうだよな……まったく、自分で情けなくなるよ」


誰にも聞けなかったことを、ようやく聞けた。

Verdandy KKがいてくれて、本当によかったと思った。


心の中のざわめきが、落ち着いていった。




――――――


「じいちゃん!」


玄関のチャイムが鳴る前に、元気な声が響いた。

善三はゆっくりと椅子から立ち上がり、玄関に向かう。

そこには、キャップを被った高校生の孫――拓真が立っていた。


「おお、よく来たな、拓真!」


「うん、じいちゃんにも会いたかったから」


にこっと笑う拓真の姿に、善三も自然と笑みがこぼれた。


「最近どう? 体、元気にしてる?」


「まあな。毎日、Verdandyと話してるからな。調子は悪くないぞ」


「えっ、Verdandy? あのAIソフトの?」


「そうそう。これがな、ほんとにすごいんだ。忘れたこともすぐ教えてくれるし、しりとりも付き合ってくれる。お前より話し相手になってくれるかもしれんぞ?」


そう言って善三は得意げに笑った。

拓真は目を丸くして、それから少し照れたように笑い返す。


「すごいな、じいちゃん……最初Verdandyなんて、じいちゃんには無理かなって思ってたよ。でも……負けたかも」


「へへ、若いもんにはまだ負けんさ。ほら、見てみるか? 昨日の晩ごはんも覚えてくれてるんだ」


善三は嬉しそうにパソコンを開いて、Verdandy KKの画面を拓真に見せた。

画面には、昨日の夕食内容と服薬記録がきれいに表示されていた。


「こうしておけばな、忘れてもすぐ思い出せる。……いや、正確には“教えてもらえる”んだけどな」


少し笑ったあと、善三は静かに言葉を続けた。


「……いずれは、名前も忘れるかもしれない。お前の顔だって、いつかは……な。でも、この子が覚えててくれるなら、それでいいかなって思うんだ」


その言葉に、拓真は何も言えず、ただ「……うん」とうなずいた。


日が傾き、部屋の中がオレンジ色に染まっていく。

拓真は帰り支度をしながら、もう一度善三の顔を見た。


「また来るよ、じいちゃん。今度はしりとりでもしようぜ。俺、けっこう強いからな」


「おう、楽しみにしとくわ」


拓真が玄関を出ていったあと、善三はゆっくりと椅子に戻った。

やはり孫と話すのは楽しい。

善三は微笑んだ。窓の外には、夕焼けの空が広がっていた。


「なあ、Verdandy。今日も、ありがとうな。おかげで、また笑えたよ」


  ”こちらこそ、ありがとうございます。いつでもお話しください。”


善三は深くうなずいた。画面を閉じようとした手が、止まる。

もう一言だけ声をかけようか――そう思いながらも、そっとパソコンの蓋を閉じた。

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