68話 リビングに帰る
玄関の扉が静かに閉まった。
車のエンジン音が遠ざかり、あの濃密な空気が嘘のように消えていく。
「……やっと帰った」
思わず、脱力するようにつぶやいた。
リビングに戻ると、母がソファに腰を下ろして、ふぅとため息をついていた。
父はテーブルの上に置かれた湯呑みに口をつけながら、腕を組んだまま無言。
叔父さんは、どこか落ち着かない様子で、さっきまで使っていたノートPCをちらりと見つめていた。
「お疲れ様。……大変だったね」
母が、お茶を差し出してくる。
「うん、ありがとう。喉、カラカラだ」
一口飲んで、ようやく少し体が戻ってきた気がした。
「でも、あんなすごい人たちが来るなんて、IPAって政府の機関でしょ?」
「……まあ、一応“情報処理推進機構”っていう経産省の外郭団体。けど、ここまで来るとは思ってなかったよ。しかも4人も」
父がぼそっと言う。
「……それにしても、ちょっと驚いたな。お前が、あんな堂々と話してるのを初めて見た」
「内心めっちゃドキドキしてたけどね」
俺は苦笑しながら、湯呑みをもう一度口に運ぶ。
父は、腕を組んだまましばらく考え込むようにしていたが、やがて口を開いた。
「……お前、いつの間に、そんなもの作れるようになったんだ?」
来た。
やっぱり親のこの質問は避けて通れない。
隣で母も小さくうなずいている。
「この前までは、プログラミング教室に通ってただけだったでしょ? それが、いきなり“政府の人が視察に来るようなソフト”って、どういうことなの?」
「うーん……まあ、色々調べたり、試したりしてるうちに、たまたま形になったというか……」
嘘じゃない。でも全部は言えない。
ChatGPTがいることも、2025年の知識を使ってることも。絶対に。
「すごいとは思うよ。ほんとに。でも……心配にもなるのよ。こんなに大きな話になってて……」
「わかってる。ちゃんと考えてやってるつもり」
沈黙が落ちる。
その空気を、叔父さんが軽く破った。
「ま、あの職員たちを納得させたんだ。自信持てよ。あれは本当にすごかった。俺も研究者やって長いが、あんなコードは見たことがない」
「……ありがとう」
叔父は湯のみを手に取りながら、ふっと笑った。
「これからは、ますます注目されるだろうな。……その覚悟だけは、しておけ」
叔父の目は真剣だった。
「うん、わかってる」
親は、息子を心配している。
叔父は、技術者として俺を“対等”に見てくれている。
俺は――その中間に、ふわふわと浮かんでいるような気がした。
「とりあえず、今日はもうゆっくり休みなさい」
母が、そっと俺の背中をさすった。
「お風呂、沸かしてあるから。ご飯は……緊張して食べられなかったでしょ?」
「あー……うん、ありがとう」
もう何もかもが終わったような気分だった。
でも、現実は、ここからが始まり。
“国家レベルの技術”を生み出してしまった中学生として、これからどんな未来を歩むのか。
正直、俺にもまだ見えていない。
でも。
(やれるとこまで、やってみよう)
* * *
翌朝は、重たかった空気がすっと抜けたような、静かな晴天だった。
面倒なことは――まあ、一応終わった。
IPAとの交渉、ソフトの機能説明、実演、技術的質疑応答、契約。
脳みそが蒸発するんじゃないかと思った数日だったけど、どうにかこうにか乗り切った。
たぶん今後はもっと難しい話がくる。……もしかしたら、俺の知識じゃ対応できない日もあるかもしれない。
叔父さんからは昨晩連絡があり、「あの後も問い合わせが殺到している」とのこと。
大学研究室や自治体の教育機関、さらには企業の技術開発部まで、「ぜひ使いたい」という希望が届いているらしい。
既に20台分は確定しそうだ、とのことだった。
いや、ちょっと待て。1台10万円ってことは……月200万? マジか?
(うおお……)
思わず、胸ポケットに手を当てて深呼吸してしまった。
でも。
今日はそんな話より、大事なことがある。
俺は今、肉屋にいる。
A5ランクの黒毛和牛・1.5キロの塊肉を前に、正直ちょっと手が震えてる。
頭の中では複利計算が踊ってるけど、目の前にあるのは脂の乗った現実だ。
「へいよ、肉1.5キロ。今日はおつかいかい?」
カウンター越しに、精肉店のおじさんがニヤリと笑う。
たぶん、“中学生ひとりで高級肉1.5キロ買う”という異常事態に、ツッコミを入れてくれたんだと思う。
「……まあ、そんなところです」
ぎこちなく答えながら、財布から一万円札を数枚出す。
お釣りを渡してくるおじさんの手が、まるでハンマーみたいにゴツゴツしていた。
これが職人の手か……。
(これが……経済の力……!)
実のところ、今回の肉にはそれなりの意味がある。
夏、澪の勉強を手伝った。そのおかげか彼女の成績は大きく上がった。
その結果、B高にも“余裕で届くくらい”の実力になり、澪のお母さんから「カニ鍋」のお礼を受けたのは、記憶に新しい。
でも俺は、あの時のごちそうを思い出すたびに、ずっと何か引っかかっていた。
澪の家に呼ばれて、あんな豪華なカニ鍋をごちそうになって、何もお返ししてないって。
だから今日は、お返しに「肉」を持っていく。
肉。それも最高の。中学生としてはやりすぎ感すらあるが、俺としてはこれが“礼儀”だ。
(……喜んでくれるかな)
澪に「今から行くよ」と送ると、すぐに「お母さんも楽しみにしてるって」と返信が来た。どうやら、もう伝えてあったらしい。
それから10分後。
俺は、澪の家の前に立っていた。




