65話 星より近い距離
――よりによって、なんでこのタイミングなんだよ。
9月25日は、澪と遊園地に行く予定だった。
自分から誘って、OKをもらって、ずっと楽しみにしていた日だ。心の支えですらあった。
それなのに――IPA(情報処理推進機構)の来訪が、まさかの同日。
叔父さんと一緒に応対しなきゃいけないし、「開発者本人」として俺の説明も求められている。
しかも、経済産業省系の技術機関がわざわざ来るってんだから、絶対に外せるはずもない。
(仕方ない……けど、マジで気まずい)
メールで通話を確認しつつ、電話をする。
通話ボタンを押す指が、ほんの少しだけ震えた。
「……もしもし?」
一度目のコールで出た澪の声は、思っていたよりも元気で、心がチクリとした。
「あ、俺。いま、ちょっと大丈夫?」
「うん、全然。どうしたの?」
「……あのさ、25日の遊園地のことなんだけど――」
そこまで言ったところで、自然と声が小さくなる。
沈黙が、ケータイ越しにじわじわと広がっていく。
「……行けなくなった?」
「……うん」
「そっか」
その言い方は、怒ってもいないし、責めてもいない。
ただ、少しだけ間があって、それが逆に刺さった。
「ごめん。作ったソフトのことで客がうちに来ることになってさ。俺が作ったからいないとダメだし……」
「ううん、大丈夫。恭一が悪いわけじゃないし」
その声はたしかに明るかった。でも、少しだけ作った感じがした。
こういうとき、なんて言えばいいんだ。
“また今度”なんて言葉が喉まで出かけて――けど、どうしても言えなかった。
そんなとき、澪の方から声がした。
「じゃあさ……もしよかったら、今週の土日、どこか行かない? 」
沈黙が続きそうになったとき、澪がふいに口を開いた。
その声は、不機嫌でも、無理に明るくしたものでもなかった。
「……え?」
一瞬止まる……これは怒ってるのか??
「……じゃあさ、プラネタリウム行こっか」
「あ、ああ……」
「科学館のとこにあるでしょ? 遊園地が無理なら、それでもいいじゃん」
その提案があまりに優しくて――思わず、息を忘れた。
責めるでもなく、無理して明るくするでもなく――
本当に、「それがいい」と思って言ってくれたんだってわかる声だった。
「……ありがとう。助かる。俺、ほんとに悪いなって思ってたから」
「別に、謝らなくていいよ。子供のとき行ったきりだから、行ってみたかったし」
「澪……優しいな」
その言葉が、自然と口から出た。
「え?」
「いや、怒られるって思ってたから。こんな優しいなんて」
沈黙が一瞬だけあって、次に返ってきた声は、少し笑っていた。
「なにー、私のことそんなに怖いって思ってたの??」
「いや、そうゆうわけじゃ……」
少しだけ焦って返すと、向こうでまた笑い声が重なった。
「……まあ、そんなことだからさ。プラネタリウム、楽しみにしてるね」
その一言が、やけに胸に響いた。
* * *
土曜日の昼。
科学館の前に着いたのは、待ち合わせの10分前だった。
自動ドアのそばにあるベンチに座って、ケータイをちらちら見ながら、澪の到着を待つ。
汗をぬぐいながら、館内のチケット売り場でプラネタリウムのチケットを2枚買っておいた。
自由席だけど、座る場所もそこそこいいところを選べた。
「お待たせー!」
明るい声がして顔を上げると、澪が手を振りながら歩いてきた。
思わず、言葉が出なかった。
淡いベージュのノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガン。
髪は軽くまとめていて、足元はおしゃれな白いサンダル。
いつもの制服姿とはまるで違って、どこか大人びて見えた。
「……なんか、雰囲気違うな」
気づいたら、そう言っていた。
「え? そう? ちょっとだけ頑張ってみただけだよ」
カーディガンの袖を指先でつまみながら、少しだけ照れたように笑う。
(マジでやばい……かわいすぎる)
口には出せなかったけど、正直、心の中はそれでいっぱいだった。
――この距離感、どうすればいいんだろう。
いま隣に並んで歩いてる澪は、なんというか……“ちゃんと女の子”だった。
澪の隣にいることが、なぜかずっと落ち着かない。
でも不快じゃない。その逆で、ずっとこうしていたい気がしていた。
「ねえ、そろそろ時間じゃない?」
腕時計を見ながら、澪が言う。プラネタリウムの上映開始が13時半。
「そうだな。行こっか」
ふたりで展示フロアを抜け、薄暗い通路を抜けていくと、ドーム型の天井が見えてきた。
受付でチケットを見せて、番号順に並ぶ。
中は予想よりも広くて、冷房が効いていて、ひんやりとした空気が肌に触れる。
円形の座席がぐるりと並んでいて、天井にはまだ何も映っていない。
でも、その静けさが逆に緊張感を高めてくる。
席に座ると、隣との間隔がやけに近く感じる。
アームレストはあるけど、ふとした拍子に指先が触れそうな距離。
しかもドームの天井を見上げる体勢になるから、横にいる澪の表情が見えにくい。
(これ……手とか当たったら、どうすればいいんだ)
そんなくだらないことを考えてる自分に、自分でツッコみたくなる。
だけど――隣にいる澪も、少しだけ緊張しているようだった。
「……ありがとう。今日、来てくれて」
俺の声は、少しだけ小さかった。でも、確かに届いたらしい。
「ううん。来たかったから。ちゃんと、楽しむよ?」
そう言って、澪が小さく笑った。
やがて、天井の光がすっと落ちていく。場内アナウンスが流れ、解説が始まった。
「これから上映を開始します。リクライニングを倒して、ゆったりと夜空の旅をお楽しみください」
静かな音楽が流れ始め、天井一面に星が広がっていく。
(うわ……)
心の中でそう呟くしかなかった。思っていた以上に、本物の夜空に近い。目を細めると、小さな星の瞬きが、まるで本当にそこにあるように見える。
でも、集中できなかった。
というより、星よりもずっと気になるものがあった。
――澪の手。
隣の澪は、静かに座っている。息を潜めて星を見上げているようだった。でも、その手の位置が、やたらと気になる。
自分の右手と、澪の左手。
アームレストの上で、ほんの少しの距離しかない。
(……当たる、これ、もうすぐ当たる)
そう思って、少し動かそうかと考えた瞬間。
ふっと、澪の指先が、こちらの指先にかすかに触れた。
(やば……)
一瞬だけだった。けど、引っ込めるタイミングを完全に逃した。指が当たったまま、動かせなくなる。
澪も、引っ込めなかった。
それどころか、手の甲が澪の手の甲に、じわじわと当たっていく。
指先同士がくっつき、甲同士が触れ、今度は20秒以上、ずっとそのままだった。
どっちからともなく――いや、たぶん自分からだった。
そっと指を少しだけ動かしてみる。ゆっくり、すべらせるように。
(……これは……)
静かな館内に、星降る夜の解説のアナウンスが流れている。
それよりも俺の意識は手元に集中していた。
すると、澪の指も、わずかに反応した。
指先が、アームレストの上から内側へと、重なるように入ってくる。
(……これは……)
心臓の音が、耳の奥で響いている気がした。
気づけば、指と指が重なっていた。
澪の手が、俺の手のひらの中に、静かにおさまっていた。
どちらからともなく、手を握った。
強くもない、けど、はっきりと繋がってる握り方。
(うわ……やば……)
顔が熱い。けど、横は見られない。
見たら、何かが崩れてしまいそうだった。
暗闇と星空の中で、隣の澪の存在が、やけに大きく感じられた。
澪は、何も言わなかった。
けれど、その手が答えていた。
――――――
プラネタリウムを出ると、午後の日差しがまだまぶしかった。
夏の空は青く高く、セミの声がどこか遠くで響いている。
澪と並んで歩く道は静かで、時おり自転車がゆっくり通り過ぎた。
言葉にしづらい沈黙が、けれど心地よく続いていた。
「……ごめんな。ほんとは、遊園地……」
その言葉に、澪が小さく笑って、首を横に振った。
「ううん。今日は十分、楽しかったよ」
その笑顔が、すごく自然で、すごく近かった。
ああ、俺はちゃんと、これを守れてよかった――
そんな気持ちが、胸に広がっていく。
「……また行こ。ちゃんと、遊園地」
そう言うと、澪がいたずらっぽく口元をゆるめて、こちらを見る。
「お化け屋敷も?」
「う……うん。一緒に叫ぶ覚悟はしてる」
恭一が苦笑すると、澪がくすっと笑った。
笑い声が、風に混ざってすっと流れていく。
ふたりの間にまた沈黙が落ちたけど、それはさっきとは違って、柔らかくて、温かかった。
しばらくして、澪がぽつりと口を開いた。
「……そのときもさ、はぐれないように……手、つないでくれる?」
その言葉は、まるで風に紛れてしまいそうなほど小さかったのに、なぜかはっきりと届いた。
心臓が、ほんの一瞬だけ強く跳ねる。
けれど、すぐに口元に笑みが浮かべた。
「……うん。任せとけ」
言葉にしたとたん、澪が少しうつむいて、「うん」と小さくうなずいた。
ただ、それだけのことなのに。
まるで、さっきのプラネタリウムの星空みたいに。
この帰り道が、今だけは少しだけ特別に思えた。




