61話 side 10 ゼミが沈黙した日
「軽い気持ちだったんだよな、最初は。中学生の作ったソフトを、ちょっとだけ触らせてもらうだけのつもりだったのに……」
誰もいない研究室で、俺はひとりつぶやいた。
今、目の前にあるのは、真新しいソフトの入ったUSBメモリ。ラベルも何も貼られていない、ありふれた記憶媒体。
でも中身は――明らかに異常だった。
きっかけは、先週末に会った甥っ子、恭一。中学生にして、いくつものサイトを運営し、趣味で自然言語処理ツールまで組んでいるというから、驚いたなんてもんじゃない。
しかも、その“趣味のツール”をチラッと見せてもらったら、あまりにも完成度が高くて、つい「触らせてくれ」と頼み込んでしまった。
それが、これだ。
Verdandy KK
ヴェルダンディか……「名前の由来は?」と聞いても、「北欧神話の未来の女神っす」とドヤ顔された。
ネーミングセンスは壊滅的だが、中身はすごい。
研究室のノートパソコンにUSBを挿し、ログインパスを入れる。
起動は数秒。黒を基調にしたシンプルなUIが表示される。余計な装飾は一切ない。
まるで、使い方をわかっている前提で設計されているようなインターフェースだった。
「自然言語応答型の補助AIです」と、彼は言っていた。が、それ以上の詳細は語ろうとしなかった。
試しに、簡単な実験をしてみる。
>2004年から2005年にかけての自然言語処理の研究動向を、主な関心領域ごとに3つに分類してください
一拍の沈黙。いや、正確には1.3秒。
返ってきた出力に、思わず息を飲んだ。
【カテゴリ1:機械学習を用いた文書分類と感情分析】
• ナイーブベイズや決定木を利用した日本語文書の自動分類手法
• 商品レビューや掲示板投稿を対象とし……
「……なんだこれ」
画面に並んだ出力を見て、思わず息をのんだ。
たしかに、昨年の言語処理学会でも、感情分析・形態素解析のハイブリッド化・対話エージェントが三大テーマだった。
でも、だからって――こんなに綺麗に分類されて、しかも数秒で出てくるなんて。
「偶然、じゃないな……」
次に、試しに論文構成を出力させてみた。
テーマは「日本語におけるコードスイッチングの発生条件と心理的要因」。
一応、自分の指導しているゼミ生が関心を持っていた分野だ。
>このテーマで、8000字程度の論文構成を考えてください
【構成案】
1. はじめに(研究の背景と目的)
2. コードスイッチングの定義と分類
3. 先行研究の紹介と整理(国内・海外)
4. 調査方法(インタビュー・観察記録の……
「……え、ちょっと待てよ」
まさに、“日本の学部生が書きそうな論文のフォーマット”だ。
余計な英語表現はなく、きちんと“日本語の卒論”として整っている。
……おかしい。
今の日本語コーパスでは、そこまで詳細に“その時代の研究”を絞って提案するのは困難なはずだ。
にもかかわらず、まるで誰かがその当時を知っているかのような、奇妙な正確さがあった。
「誰がこんなものを……」
彼は“趣味”だと言っていた。
でもこれは、もはや研究者のそれだ。いや、研究者を超えている。
ツールとしての完成度はもちろんだが、もっと気になるのは“設計思想”だ。
単に情報をまとめて吐き出すだけのアシスタントじゃない。
使う人間が何を求めているのかを読み取り、最適化して出力している……そんな感覚。
AIの枠を超えて、“何か別の知性”と向き合っているような、不気味な気配すら感じる。
「今日はな、ちょっと面白いものを見せようと思ってる」
水曜の午後。研究棟の一室に、学生たちの声がちらほらと響いている。
3年ゼミの時間、いつものように人数は8人。みんな真面目で、それなりに優秀。
俺はその前で、プロジェクターを立ち上げつつ、ノートパソコンをセットした。
「え、今日は発表じゃないんですか?」
小柄な女子学生がプリントを出しかけて言った。
「ああ、今日は俺のターン。プレゼンというか……ちょっとした技術紹介だな」
そう前置きして、USBをノートPCに挿す。
「“言語処理ツール”って言ったら、どんなのを思い浮かべる?」
「形態素解析とか……辞書ベースの分割ですかね」
「そうだな」
俺は頷いて、画面にVerdandy KKのインターフェースを表示する。黒背景、最小限の構成。
学生たちは首をかしげた。
「なんか、すごくシンプルですね……」
「まるで昔のUNIXっぽい」
「で、これが……なんなんですか?」
「まあ、見ててくれ」
俺はキーボードを叩く。昨日と同じ質問だ。
>2004年から2005年にかけての自然言語処理の研究動向を、主な関心領域ごとに3つに分類してください
1秒、2秒。
プロジェクターに結果が表示された瞬間、教室の空気が変わった。
「……え?」
「これ、今処理したんですか?」
「保存済みの出力じゃなくて?」
「リアルタイム生成だ」
そう答えると、ざわめきが大きくなる。
「カテゴリ分けの粒度、やばくないですか?」
「ていうか、出力速くない? モデルサイズどのくらいなんですか?」
俺は苦笑いを浮かべながら、「詳しいことはちょっと言えないんだ」と濁す。
「先生、正直に言ってください。これ、事前に仕込んでた出力じゃないんですか?」
教室の後方にいた男子学生が、やや冷めた声で言った。
「たとえば、定型の質問には答えられるように、テンプレを読ませてるとか……」
一瞬、場が静まりかえる。
本当のところを言えば、俺自身にも「これはあり得ない」と思う気持ちがあった。
でも――それでも信じたい何かがあった。
俺は小さく息を吸い、すぐに返す。
「なるほど。じゃあ、今その場で“思いつきの質問”をしてくれ」
「……マジっすか?」
「仕込んでないって証明するなら、それが一番早いだろ」
ざわついていた空気が、ピンと張り詰める。
さっきの学生が、少し困ったような顔をしてから言った。
「じゃあ……“明治期の言文一致体と現代ブログ文体の接続可能性について、仮説を提示せよ”……これでどうです?」
人が「うわ」「マニアック」と呟いた。
完全にアドリブ。答えが返ってくるとは思っていない。
だが、1.8秒後――画面に出力が現れた。
【仮説】
「言文一致体の成立は、口語の書き言葉への侵食を正当化する文化的転換で……」
「…………」
沈黙。
疑いをかけた本人が、最も目を見開いていた。
「……おいおい、マジかよ」
「ってか、これ中身、まともじゃん。ていうか学会に出せるレベルじゃね?」
そのとき、小柄な女子学生がぽつりと呟いた。
「これ……検索とかテンプレじゃない。たぶん……“考えてる”」
誰かが、息を呑んだ音がした。
「これ、もし一般公開されたら……俺たち、何のために学んでるんだろうな……」
誰かがぽつりとつぶやいた。
冗談めいていたけれど、その声には確かな“焦り”が混じっていた。
笑い混じりの絶句。
でもその中に、本気の戸惑いと、焦りと、興奮が混じっていた。
そして一時間ほど、それぞれの思いつく入力を行った。
「……今日はここまでにしておこう」
俺がそう言ってUSBを抜くと、何人かの学生がすぐさま寄ってきた。
「先生、このソフトってどこ製なんですか?」
「オープンソースですか?」
「自作だったら、チームは何人規模で……?」
「いや……個人開発、らしい」
「うそだぁ……マジで!?」
俺は内心、(だよな)と思った。
俺自身、信じられていない。
ゼミ終了後、パソコンを片付けながら、俺はため息をついた。
学生たちは教室を出てもなお、廊下で「やばかった」「あれってバレたらパクられるやつじゃね?」と盛り上がっていた。
(……これ、便利すぎるんだよな)
頭ではわかっている。こういうツールが普及すれば、学術の門戸は広がる。論文作成や研究設計のハードルも下がるだろう。
けれど――
(この先、学生たちは“自分で考える”ということを、やめてしまうんじゃないか)
そんな不安がよぎりつつ、俺はUSBをそっとポケットにしまった。




