54話 side 09 それ、勉強じゃなくてデートじゃん
朝の8時。目覚ましより3分早く目が覚めた。
(……うそ、今日に限って早起き?)
集合は11時。
「あら澪、早いわね」
「うん……」
まだ3時間もあるのに、目が覚めた瞬間から胸がざわついてる。心臓が、なんだか忙しい。
8月の朝は、少し動いただけで汗がにじむ。
寝汗も気になるし――と、パジャマのままバスルームへ。
ぬるめのシャワーを浴びると、ほっとする。
お気に入りのボディソープを泡立てて、腕をいつもより丁寧にこすった。
冷たすぎない水温で、すっきり汗を流してリセット。
ついでにお気に入りのボディソープで、いつもよりちょっと丁寧に腕を洗った。
(よっし……これで“清潔感”は完璧)
髪にバスタオルを巻いたまま、部屋に戻って今日の予定を思い出す。
今日は、図書館で一緒に勉強する約束の日。
別にデートじゃない。うん、ないけど……
恭一と一緒に図書館でお勉強だし……
だから昨日の夜は、お風呂で2回もトリートメントして、鏡の前で「笑ったときに変じゃないか」確認までした。
それなのに。
「お母さん! お気に入りの白いブラウス知らない!?」
「干してあるわよ。昨日、床に脱ぎ捨ててあったから」
「え゛っ!?!?」
ベランダで風になびくブラウスを見て、言葉を失う。
(なんで今なの……それ、今日のためだったのに……!)
「ちょっとー! それ、“わざと”出してたの! 明日着るって決めてたのに!」
「は? 床に落ちてたわよ。脱ぎ捨ててあったじゃない」
「違うもん! ちゃんとイスにかけてたの! “明日着るゾーン”だったの!」
「そんなゾーン、うちの家には無いわよ」
「うぅ……今日のためだったのに……何着ていこう……」
焦ってクローゼットを漁る。
Tシャツはラクだけど、可愛いって思われたいし。
……あ、水色のフリルブラウス。あれなら、まだ……!
「うん、これなら。やや気合入ってるけど」
「うん、これなら……バランス取れる、はず」
下はシンプルなスカートで落ち着かせる。
(ていうか、これで気づいてくれたら……いやいやいや!)
気を取り直して、次はメイク。
「お母さん、メイクして! 目元だけでいいから!」
「は? 何でしないと……」
「だってさー! 今日、恭一と勉強って言ったじゃん!」
「はいはい」
母にツッコまれながら、リビングの前に座る。
ビューラーでまつ毛がギュインと上がるたびに、自分の中で何かが引き締まっていく。
「リップは?」
「いらない。透明のグロスだけでいい」
鏡に映る自分の顔をチラッと確認しながら、私は答えた。
「はい、ちゃんとアピールしてきなさい」
「べ、別に……ふつーに、勉強するだけだし」
そっけなく言ったつもりだったけど、母はニヤニヤ顔で返してくる。
「もー素直じゃないのね」
そんなことはどうでもいい……話題を切り替える。
「それより、お弁当のサンドイッチ、できてる?」
「うん、ちゃんと全部切ってあるわよ」
「ナイス!お母さん!!」
キッチンに駆け込んで、手早くラップと袋で包む。
大事なのは、ちゃんと“いつもっぽいのに、ちょっと特別”な見た目。
レタス、きゅうり、ハム、卵。味つけはちょっとだけ濃いめにして――
(うん、たぶん大丈夫)
気づけば、もう時間がギリギリだった。
「お母さん! 図書館まで送って!」
「えっ? なんでよ、歩いて行けばいいじゃない」
台所から振り返る母は、ちょっとだけ呆れた顔。
「無理! 汗かくじゃん! 汗臭かったら、終わりじゃん!!」
気合いを入れてるのをバレたくない気持ちと、汗で“全てが台無しになる”恐怖。
背中にじんわり汗を感じただけで、即アウトな気がしていた。
「はいはい……もうホント朝から騒がしいんだから……」
それでも車のキーを手に取ってくれる母の背中に、心の中で全力のガッツポーズを決める。
(やった……! これで図書館“デー”……じゃなくて、“勉強”、完璧にスタートできる!)
(よっし、計画通り! 汗もかいてないし、化粧も無事)
あとは、変なこと言わなきゃ完璧……たぶん。
* * *
汗をかかずに、図書館に到着。
エアコンが効いた自動ドアの向こう側は、静かでひんやりした空気が漂っていた。
(よし。ギリ完璧な状態)
メイクも崩れてないし、髪の毛も跳ねてない。
服もシワになってないし、何より……まだ来てない。
ちょっとだけホッとしながら、涼しげな顔を装って受付へ。
予約しておいた自習室の番号を告げると、すぐに鍵を渡された。
中に入ると、空気は少しこもっていた。
「……暑っ」と小声でつぶやいて、すぐに備え付けのエアコンをオンにする。
静かなモーター音とともに、涼しい風がじわじわと部屋に広がっていく。
机の並びには、いくつかイスが用意されていた。
その中から、恭一が座りそうな位置のすぐ隣――
一番距離が近くなる場所を選んで腰を下ろす。
さらに、イスをほんの少しだけ横にずらして、距離を詰めておいた。
自然に見えるように。でも、意識すればちゃんと“近い”って分かるくらいに。
(うん、これでよし)
そして5分後――
「あっ」
小さな声が漏れた。
入口に、ちょっとだけ眠たそうな顔の恭一が現れた。
Tシャツと半ズボン。相変わらず夏休みの中学生って感じ。なのに――なんか似合ってるのが悔しい。
「ごめん、遅れてない?」
「ううん、ちょうど今来たとこ」
↑ほんとは15分前に着いてました。
↑むしろ椅子の位置と空調の強さを確認してたレベルです。
恭一はノートPCと参考書を出して、いつものように準備を始めた。
11時。静かに勉強スタート。
(……よし、いける)
今日やる範囲は、3日前からこっそり準備してた。
バカだと思われたくなくて、夜遅くまで問題集を繰り返して、大体は理解している。
問題の解き方を教えてもらうのも、もちろん分かりやすいんだけど、恭一が説明するときの「こう考えたら分かりやすい」っていう言い回しが、なんか好きだった。
だから、準備してても聞きたくなる。
「ここってさ、“符号の変化”に注意しないと、引っかかるよね」
「……うん、そうだよね」
予習してたくせに、ちょっとだけ考え込むフリをする。
いや、ずるいってわかってる。でも、「すごいな」って思ってるところ、ちゃんと伝えたかった。
ふと、時間を見ると12時40分。
もうすぐ1時。そろそろお腹が減ってくる時間――
(今日のサンドイッチ、食べてくれるかな)
昨日の夜から切って準備しておいたレタスときゅうり。
ハムと卵、それにマヨネーズはちょっとだけ味を濃くした。
一応「手作りだけど普通」を目指したけど、どうかな。
「ねぇ、もうそろそろ……」
と言いかけたそのとき、タイミングを合わせたかのように、恭一が顔を上げた。
「ちょっと休憩しない? 俺、腹減った」
「……うん、いいよ」
(よっし!)
リュックから丁寧にサンドイッチの袋を取り出す。
恭一はそれを見ると、少し目を丸くしてから、笑った。
「えっ、持ってきたの? すげー」
「うん。……普通のやつだけど」
「めっちゃ助かる。ありがとう」
中学生男子らしく、一口がでかい。
けど、もぐもぐ食べながら、ちゃんと笑ってくれてる。
「うまい。てか、これ買ったやつよりうまいかも」
「それは言いすぎ」
「いや、マジで。味付けがちょうどいい」
(うわ、それ、ほんとに嬉しい……)
思わず飲み物のストローをかむ。照れ隠し。
図書館の自習スペースって、こんなに明るかったっけ。
「てかさ」
「うん?」
「……いや、なんでもない」
(……遊園地のこと、言いかけたんだ。たぶん)
なにか言いかけた恭一の顔を見て、澪は思わず口元を緩めた。
(……たぶん、今の“なんでもない”は、あのことだ)
実はもう知っている。
恭一が、9月に遊園地に行こうと計画してくれていること。
本人からはまだ何も言われていないけれど、恭一のお母さんが、うちの母にちょっとだけ話しちゃって、それが、こっそり私にも伝わってきた。
(なんか……かわいい)
「何それ、気になるんだけど」
軽くツッコミを入れながらも、澪の胸は少しだけ弾んでいた。
ジェットコースターも楽しみ。
お化け屋敷は怖いけど、……しがみつくくらい、許してくれるかな。
……変に思われたらどうしよう。
でもそのときは、「びっくりしただけだから」って、ごまかせばいける、かも。
そんなことを想像して、口元がまた緩む。
(ちゃんと本人の口から聞くまでは、黙っててあげよ)
(……ねえ、これほんとに“勉強”だったっけ?)
たぶん――勉強じゃなくて、ほとんど“デート”だった。
冷房のきいた図書館の中。
でも、胸のあたりだけはじんわりと、あったかい。
第9章までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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