45話 side 08 中学生の背中が、遠くなった日
息子が、自分よりも優秀かもしれない。――そう思った瞬間を、俺は今でも忘れない。
数年前。
学校の宿題で「速さ=距離÷時間」の計算ができないと泣いていたことがある。
そのときは、なんとも思わなかった。子どもだし、まあこんなもんか、と。
「この程度もまだ理解できないのか」なんて、少し呆れもした。
けれど。
気づけば、俺のまったく理解の及ばない場所まで、あいつは進んでいた。
初めてそれを実感したのは、レシピサイトの話を聞いたときだ。
冷蔵庫に貼ってあった紙に、夕食のメニューらしきものが書いてあった。
何気なく目をやった俺に、妻がにこにこしながら言った。
「これね、恭一がレシピ見つけてくれたのよ」
そのときは、少し感動した。
やっと親孝行を始めたのか、と。
ネットで探したレシピをプリントアウトして、手伝ってくれる――
中学生なりに、少しずつ家族の役に立とうとしているのかもしれないと、思った。
だが、その感動は、次の一言で驚きに変わった。
「しかも、このレシピ、恭一が自分で作って、ネットに載せてるんだって」
……は?
思わず聞き返したが、妻は本気だった。
「ほら、このサイト。“毎日ごはんレシピ”っていう名前でね、毎日誰かが見てるんですって。すごいでしょ」
本当に、理解が追いつかなかった。
俺の目の前でTVのお笑いを見て笑っていた子供が、いつの間にか自分でホームページを作って、
しかもそれが「誰かに使われている」なんて……。
それから、気にするようになった。
仕事から帰るたびに、「今日、こんなの作ったよ」と言って見せてくれる。
翻訳サイト。天気サイト。文章作成サイト。
やってることが毎月のようにレベルアップしていて、正直、半分くらいは何を言っているのか分からなかった。
でも、それがすごいということだけは、痛いほど分かった。
あいつは自分ができることを、少しも大げさに語らずに、当たり前のようにこなしていく。
それが、どれだけすごいことなのかも分からずに。
そんなある日、昼休みに何気なく会社のパソコンを使って、恭一の作ったレシピサイトを開いてみた。
「毎日ごはんレシピ」という、なんとも優しげなタイトル。
見やすいトップページ、カテゴリ分けされた料理。
「家にあるもので」「時短」「子どもが喜ぶ」――そんな言葉が並んでいて、どれも誰かの生活を想像させた。
「部長、それ……料理サイトですか?」
若手の社員が後ろから声をかけてきた。
「ああ、うちの……息子が作ったんだよ。これ」
「えっ? 中学生でしたよね?」
「中学3年。こいつが作ったレシピを、妻が作って、うまかったからな。俺も見てみるかって思ってな」
画面に近寄ってきた数人が、驚いたように息をのんだ。
「うわ、これ……本当に中学生が? ていうか普通に使いやすいし」
「すげえ……サイトの構成、ちゃんとしてますよ。普通にこういう仕事してる人レベルですよ」
「この“作ってみました”の投稿、結構リアルですね。主婦層狙ってるの分かるわ~」
恭一のことを褒められて、俺はなんだかむず痒いような、でも誇らしいような気分になった。
「まあ、家じゃずっとパソコンに向かっててな。何してるのかと思えば……こういうの、やってたらしい」
自慢したい気持ちを少し押さえながらも、つい画面を見つめる目が細くなる。
こいつはもう、ただの“息子”じゃない。
一人の“何かを生み出す人間”として、ちゃんとこの社会とつながっているんだ――そう思った。
「会社のホームページが40万って高い」と、つい夕食中に愚痴をこぼしたときのことだ。
すると、対面にいた恭一が、スプーンを置きながら当たり前のように言った。
「あ、俺が作ろうか?」
あまりにも自然すぎて、最初は冗談だと思った。
たしかに、レシピサイトだのニュースまとめサイトだの、いろいろ作っているのは知っていた。
でも、それとこれとは話が違う。
中学生が、会社の名刺代わりになるホームページなんて作れるわけがない。
プロが請け負うような案件を、しかも夕飯のあとに軽いノリで引き受けるなんて――。
……そう思っていた。
けれど、夕食後、俺がリビングで巨人戦を見ているあいだに……
あいつは本当に、ものの一時間ほどで“それっぽい”ページを作ってしまった。
ページが開いた瞬間、思わず「おお」と声が漏れた。
白い背景に、黒い文字。
上のほうには会社名と、それっぽいキャッチフレーズ。
その下に、大きめの倉庫の写真がドンと載っていて、なんというか、それだけで“うちの業種”っぽい空気が出ていた。
メニューも「会社の紹介」とか「商品の案内」みたいな項目が並んでいて、クリックするとそれぞれのページにちゃんと飛ぶ。
商品の写真はまだ仮の画像だけど、置き場所も見せ方も自然で、特に困ることはない。
細かい仕組みはよく分からなかったが、とにかく“見て分かる”ようになっていることだけははっきりしていた。
一枚の紙で会社のことを説明するよりも、ずっとスッと頭に入ってくる。
画面の文字も見やすいし、変に派手な動きもない。
読みやすくて、落ち着いていて、誰が見ても「ちゃんとしてる」と思える。
「……なるほどな」
技術のことはまるで分からないけど、これは“いいもの”だと、素直に思った。
「……本当に、これ中学生が作ったのか」
我ながら陳腐な言葉しか出てこなかった。
そのまま翌日、USBに入れてもらったサンプルデータを持って会社へ向かった。
午前中の事務処理を終えたあと、総務の佐々木に声をかけた。
「そういえば、ホームページの件、あれどうなった?」
「業者から見積もり来てますよ。初期費用が40万で、毎月の管理料が5000円くらいです」
「ふむ……実は試作品をひとつ、知り合いが用意してくれててな」
「試作品?」
俺はポケットからUSBを取り出し、社内のPCに差し込んだ。
ローカルに保存されたファイルを開くと、シンプルなトップページが現れる。
会社名の仮タイトル、倉庫の写真、いくつかのメニュー。
どこか素人臭さはあるが、それ以上に、“必要な情報が必要な形で”整理されていた。
「……これ、誰が作ったんですか?」
しばらく画面を見つめていた佐々木が、ぽつりと言った。
「うちの息子だよ。中学3年の」
「……えっ……?」
佐々木の顔が固まる。
「息子さんって、こないだ“うちの息子は最近パソコンに夢中”って言ってた……あの?」
「そう。あの」
佐々木はしばらく沈黙し、USBを見てからまた画面に戻った。
「……時代ですね」
佐々木がぽつりとつぶやいたあと、ふと何かを思いついたように言った。
「部長、このページ、業者にベースとして渡すっていうのはどうです?
これだけ出来てれば、たぶんデザインだけ整えてもらえば済みますよね?」
「お、なるほど。たしかにそうか……完全にゼロからじゃないから、手間もコストも減るな」
その日の午後、さっそく業者にこのデータをメールで送ってみた。
するとすぐに返事があり――
「初期費用、5万円でいいですよ。すでに素材があるなら、微調整だけで済みますから」
35万円も浮いた。
俺はその足で社長室に行き、事の顛末を説明した。
レシピサイトを作っていた話も、ニュースサイトを運営している話も全部。
社長は最初こそ目を丸くしていたが、USBに入れたサンプルを実際に見て、しばらく無言になったあとでこう言った。
「……これは確かにすごいな。中学生でここまでやるか。
今度、会社に連れてきてくれないか? 少し話してみたい。お小遣いでも渡してやろう」
帰宅後、その話を恭一に伝えると、思った通りの反応が返ってきた。
「えっ、お小遣い? いや、それはいいよ」
「でもお前が作ったやつがベースになって、業者に渡すことになったんだぞ。報酬として当然――」
「ううん、むしろ、俺が作ったものを使ってくれる人がいるっていうだけで、十分うれしいよ」
そう言って、彼は笑った。
その笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。
あいつは、夕食後のたった1時間で、35万円分の働きをしてのけた。
業者への支払いは5万円になり、会社は35万円も浮いたんだ。
「これを本業にしたら……一体、いくら稼げるんだ?」
ふと、そんな現実的な皮算用すらしてしまう。
だが、それだけでは終わらない。
7月だけで、あいつの運営するレシピサイトの広告収入は20万円を超えていた。
中学生が副業で、月に20万。
それも誰かを騙したり、派手に宣伝したわけでもなく、「役に立つものを、静かに作り続けた結果」が、それだけの価値になっていた。
そう考えると、背筋がすっと伸びるような、なんとも言えない気持ちになる。
「すごいな」なんて言葉じゃ足りない。
でも、それ以外に言いようがない。
――あいつは、報酬を断った。
「使ってくれるだけで嬉しいから」
そう言って、ふっと笑った顔を、俺はたぶん一生忘れない。
あいつはこれから、きっともっとすごいものを作っていく。
そしてそれを、やっぱり当たり前のように「べつに大したことじゃないよ」って顔でこなしていくんだろう。
第7章までお読みいただき、本当にありがとうございました。そして、ここで第1部が終了となります。明日からは第2部がスタートし、物語がどんどん加速していきます。
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