4話 中学のお勉強
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると、今は10時前。……誰だ?
母さんは買い物に出てるし、荷物の配達にしては早すぎる。
とりあえず玄関へ向かうと、ドアのすりガラス越しに、細身の人影が見えた。
小柄で肩くらいの髪型――ん? まさか。
「……え、うそだろ」
玄関を開けると、そこに立っていたのは、まさにその“まさか”だった。
「おはよー、恭一! 遅れてないよね?」
満面の笑みで手を振る少女――白石 澪。俺の幼馴染だった。
「……えっと、何か用事?」
「は? いや、春休みの宿題、一緒にやるって約束してたじゃん」
「……してたっけ?」
「え、忘れたの? 昨日帰りに言ったじゃん、“明日、午前中から行ってもいい?”って」
「あー……あー……うん、たしかに……言ってたような、気もする……」
内心、パニックだった。
転生直後だから直近の予定なんてもちろん知らない――まいった。
でもまあ、来てしまったものは仕方ない。
「と、とりあえず、リビング使っていいよ。母さんいないし」
「うん、ありがとー」
彼女は慣れた足取りで上がり込み、靴を脱いで真っ直ぐリビングへ向かっていった。
この家に来慣れてるのがありありと分かる。……というか、ほんとに常連なんだな。
俺も後を追ってリビングに入ると、澪はテーブルの端に自分のリュックを置いて、さっそくノートを取り出し始めていた。
「じゃあ、今日はとりあえず数学からやろっか?」
「お、おう……」
「え、なにその反応。やる気なさすぎでしょ!」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……」
本当は“約束してたことすら覚えてないから反応に困ってる”だけなんだけど、それを言うわけにもいかず、苦笑いでごまかす。
「ほら、これ。このページからだったよね」
「う、うん……(たぶん)」
澪はノートを開いて鉛筆を走らせはじめた。
少し前かがみになったその姿勢は、なんというか、変わってないなー……って妙に懐かしい。
サラサラと髪が揺れて、耳のラインがちらっと見えた。
活発で明るい。だけど、どこか子犬っぽくて、人の顔色を読むのが上手なところもある。
容姿が特別派手なわけじゃないけど、自然と目を引くタイプの可愛さ――そんな印象。
「なに、ぼーっとして。全然進んでないじゃん」
「見てるだけだって。観察学習ってやつ」
「それ、ただのサボりって言うの!」
ノートで軽く肩を叩かれた。
まあ、どうせ中学2年生の勉強だ。10年以上前とはいえ、高校数学も勉強した俺には簡単か。
こういうやりとりも、昔からずっと変わらない。
小学生の頃も、よくこうして一緒に勉強してた。
宿題は一緒にやったほうが早いし、なにより楽しい。澪がそう言って、よく家に来てた気がする。
その記憶も……今の俺にとっては“昔のこと”じゃなく、“前世の記憶”だ。
だからこそ、こうして目の前にいる澪が少し眩しく見えた。
「そういやさ、私たち、もうすぐ中3だよね。なんか早くない?」
「まあな……受験生だしな」
「受験かー。なんか、あんまり実感ないんだよね。ちゃんとやってる人、もう勉強始めてるのかな……」
「そりゃ、いるだろうな。塾通ってるやつとかは、ガチでやってるんじゃね」
「うわー、焦るー……」
言いながらも、鉛筆の動きは止まらない。
このあたりが澪のすごいところで、要領が良いというより“なんだかんだちゃんとやる”。
感情優先でちょっとぬけてるところもあるけど、地道にこなしていくし根っこはしっかりしてる。
「……にしても、今日の恭一、ちょっと雰囲気変わった気がするな」
そして、意外と鋭い。
「え?」
「なんか……言葉とか、視線とか。ちょっと落ち着いてるっていうか」
「お、おう。成長期?」
「へー、成長期で大人になるんだ。便利だねー」
冗談っぽく笑いながら、でもしっかり目が合ってる。
やばい。この子、たぶん半分くらい本気で言ってる。
さすが勘が鋭いというか、たぶん、変わったことに“気づく”タイプだ。
気を抜いたら、転生したってバレかねない。
言葉を選びながら、俺は答えた。
「まあ……春休みで、ちょっとだけ考える時間が増えたってだけだよ」
「ふーん、そっか」
あっさり流してくれたけど、内心どう思ってるかは、分からない。
でも、たぶん――“今までと同じ恭一”じゃなくなってるって怪しんでるんかな。
「ちょっと待って、この問題、なんかムズくない……?」
澪がペンを止めて、ノートをくるっとこちらに向けてきた。
「どれどれ……あー、文章題か」
「そう! “x+y=100、x:y=2:3”ってやつ。なんかもう、何していいかわかんなくなるやつ……」
「なるほどな」
俺は一瞬で解き方が頭に浮かんだ。
高校受験でもよく出る典型問題。元の世界で塾講師バイトしてた頃、何度も見たやつだ。
「この場合は、xとyの比が2:3ってことだから、全体の5を100として、xが40、yが60になる。計算はこう……」
「えっ、早っ! わかりやす!」
澪は目をまんまるにして、ノートに写していく。
「そんなに頭良かったっけ、恭一?」
「……さあ?」
そう聞かれるとは思ってなかったから、少し答えに詰まった。
記憶では俺、中学時代は“中の上”くらいの成績だった。
勉強が特別できたわけじゃない。普通に授業を聞いて、普通に宿題を出して、テストもまあまあ。
でも今の俺は、34歳の記憶を持ってる。
しかも、元の世界では大学出て、それなりに勉強してきたし、AIまで使える。
「最近、ちょっとだけ真面目にやってるから、かな」
なんとなく濁したけど、澪は納得したのか、ふんふんとうなずいた。
「そっかー。なんか、ちょっとカッコよく見えた」
「……マジで?」
「ウソウソ! 冗談冗談!」
笑いながら言うその顔は、たしかに冗談っぽかったけど、
一瞬だけ見えた表情が、ちょっとだけ照れてるようにも見えて――不思議と、心臓がトクンと跳ねた。
それから、またしばらく集中して問題を解く。
鉛筆の音と、春の風の音だけがリビングに流れていて、思いのほか、心地いい。
時間はあっという間に流れて、気づけばテーブルの上のプリントは、ほとんどチェックマークがついていた。
「……あー、やっと数学終わったー!」
澪が伸びをしながら、ソファにゴロンと倒れ込む。
「ここまでくれば、あと英語と理科と調べ学習くらいだな」
「そうそう、その“調べ学習”がさ……」
澪が身体を起こして、苦々しい顔をした。
「“地元の歴史について調べて、A4にまとめてくる”ってやつ。あれ、ほんっとに苦手なんだよね……」
「あー……あったな、そういうやつ」
俺の記憶にも微かに残っている。
図書室で郷土資料を漁ったり、市のホームページを見たりして、なんとなく文章を繋げてた。
「なんかこう、ちょうどいい情報が見つからないし、まとめ方もわかんないし、適当にコピペするとバレそうだし」
「わかる」
昔の俺も、地元の歴史とか言われても「いや誰が興味あるんだよ」とか思ってた記憶がある。
でも、今は違う。
俺には――ChatGPTがある。
「じゃあ、ちょっと見てやるよ。何について調べればいいの?」
「“八王子市の歴史”とか“昔の名産品”とか、そのへん」
「OK。ちょっと待ってて」
俺は席を立って、さりげなく隣の部屋のPCに向かった。
もちろん、バレないようにドアは半分閉めて。リビングからは見えないように。
チャット欄を開いて、素早く入力する。
>八王子市の歴史について、中学生向けにわかりやすく800字程度でまとめて
【ChatGPT】
「八王子市は江戸時代、宿場町として栄え……」
「よし、完璧」
よしいい感じだ、少しだけ言い回しを中学生っぽくアレンジする。
これだけで、完全オリジナル感が出る。
その書いたのをwordにコピペして印刷する。
「ほら、これ」
「え、なにこれ……え、もう?」
「きのう自分用にまとめてたんだけど、使っていいよ。俺はまた書くし」
「……え、え、すご……。ありがと、助かる!」
澪は驚いた顔のまま、ChatGPT が書いた文章を食い入るように読んでいた。
「文章もわかりやすいし、ちゃんと“自分の言葉”っぽい。これで先生にもバレないよね?」
「……たぶん」
というか、先生どころか教育委員会に見せても怒られないレベルのクオリティだと思う。
それでも、澪が嬉しそうに笑ってくれたなら、それでいい。
「なんか……ほんとに、恭一って変わったね」
「……そうか?」
「うん。前までだったら、“自分で調べろよ”とか言ってそうなのに」
「昔の俺、そんなやつだったっけ?」
「ちょっとだけね」
小さく笑うその顔に、なんだかドキッとした。
たぶん――何気ない日常の中で、少しずつ変わっていくものがある。
俺の行動も、澪の表情も、その距離感も。
―今まで見落としてた“大事なこと”にも、少しずつ気づき始めているのかもしれない。