エピローグ
スーツケースのキャスターが、ロビーの大理石の床を軽やかに転がっていく。
澪のご両親と、俺の父さん母さん――普段なら絶対に一緒に出掛けることなんてない四人が、揃ってホテルにやってきた。
「うわぁ……」
シャンデリアを見上げて、澪のお母さんが小さく声を漏らす。
「こんな立派なホテルで働いているのね」
澪はちょっと照れたように笑って、「うん……まあね」と小さく返事をした。
受付でスタッフがチェックインの手続きを進める。フロントの制服も、今日はいつも以上に誇らしく見えた。
そんな中、俺の母さんがぼそっと呟く。
「……あんた、本当にしっかりオーナーやってるのね」
手続きが終わると、スタッフが笑顔で頭を下げる。
「本日は十四階のスイートルームをご用意しております。四部屋でございますね」
「は、はい」と俺が返事をすると、両親たちは目を丸くした。
俺と澪の両親で各1部屋、そして俺と澪で1部屋ずつだ。
エレベーターが静かに止まり、十四階の扉が開いた。
目の前に広がったのは、ガラス越しにきらめく新宿の景色。
「わぁ……!」
澪のお母さんが思わず声を漏らす。
「高くてキレイね」
澪父も腰に手を当てて、しばし景色に見入っていた。
俺はスタッフと一緒に、両親たちをそれぞれの部屋へ案内した。
カードキーをかざすと、重厚なドアの向こうにスイートルームの灯りがぱっと広がった。
「……広いな」
父さんが低く呟き、驚いている。
澪がそちらの両親を案内したら澪のお母さんは「ホテルって、どうしてシーツがこんなに気持ちいいのかしら」と感心していたらしい。
その表情を横目に、俺は小さく息をついた
――こうして自分の親も、澪の親も、同じホテルで笑いながら驚いてくれている。
その光景が、なんだか不思議で、そして嬉しかった。
荷物を置いたあと、ひと息ついた流れで『せっかくだからデザートでも』とレストランへ向かった。
甘い物を口にしながら、ホテルの名物でもある配膳ロボット”ミケ”を両親たちに見てもらおうと思ったのだ。
店内に入ると、ちょうど料理を運ぶタイミングでテーブルの脇を、猫型配膳ロボがすっと通り過ぎた。
『つきました、にゃ~』
丸いディスプレイに猫の顔が映し出され、可愛らしい声でそう告げる。料理を載せたトレーが、するするとこちらのテーブルに滑り込んできた。
「あ、これが話題のネコちゃんね」
澪母が目を丸くし、澪父も「かわいいなぁ」と前のめりになって興味深そうに見ていた。
俺の母さんも笑って「前も見たけど、やっぱりすごいね。今どきのホテルって」と感心している。
澪はというと、ちょっと頬を赤らめながらも嬉しそうに説明する。
「やっぱこの子が一番人気なんだよ。小さい子もすごく喜んで……」
その横顔を見て、俺は思った。
――ああ、こうやって自分の家族と澪の家族が同じテーブルで笑い合ってるのって、すごく不思議だな。
みんなでレストランに行った後、ヒマだったので俺は少しホテル内を歩いて回った。夕方のチェックインが落ち着いた時間帯で、全体的にどこか穏やかな空気だ。
ちょうど営業部のスタッフが資料を抱えて通りかかったので、軽く声をかける。
「お疲れさまです」
「オーナーも、お疲れさまです」
にこやかに返してくれる。
ふと、そのスタッフが言った。
「そういえば先日、来年度から基本給が上がるって告知があって……みんな、すごく喜んでましたよ」
「そうですか」
「はい。『ここで働き続けたい』って声もよく聞きます。私自身も、この職場が好きです」
そうを言われると、とても嬉しくなる。
ホテルの株式を手に入れたときは数字や計画ばかりを考えていたけど、結局一番大事なのは「ここで働きたい」と思ってもらえることなんだ。
少し立ち話の流れで、自然と打ち合わせめいた会話になる。
「そういえば、営業部の方には以前からお話してましたが……」と俺は切り出した。
「将来的に、日本中のホテルを横断的に検索・予約できるサイトを立ち上げたいと考えています」
スタッフが目を丸くする。
「ええ、確か……あの構想ですね。今は旅行代理店を通すのが主流ですが、ネットだけで完結できる仕組みがあれば便利ですし、他のホテルも興味を持つはずです」
「そうなんです。海外の観光客はこれからもっと増えるはずですし、日本人向けにも“自分たちで選んで予約できるサイト”があっていいと思うんです」
スタッフは深く頷き、少し笑った。
「オーナーが若いからこそですよね、こういう発想は。私たちも楽しみにしています」
その言葉に、俺も思わず笑みを返した。
数年先を見て動けるのが、今の俺の強み。
目の前の業務と同時に、未来への布石を打っていく。
* * *
夕方、部屋に戻った澪のお母さんが、慌てた声を上げた。
「……あら、化粧水家に置いてきちゃった!」
澪が「え、どうする?」と困った顔をする。
俺はすぐに答えた。
「大丈夫ですよ。すぐそこのコンビニで買えますから」
「え、こんなところにも?」
エントランスを抜けた裏手。角を曲がった先に、明るい看板が光っていた。
最近オープンしたコンビニだ。
「ほんとだ……便利なのねぇ」
澪母が感心したように呟く。
「ホテルの周りに何でもあるのね。観光地に来たみたい」
コンビニで必要なものを買い揃えて外に出ると、向かいには馴染みのそば屋がある。
古い木の引き戸に赤い暖簾「更科」。
俺も何度か通ったことがある店だ。
その時、外国人の家族連れが笑顔で入っていくのが目に入った。
入口の横には、見慣れなかった新しい看板が出ている。
“English Menu Available”
思わず足を止めて見入ってしまった。
最初に俺が英語のメニューを作った店だ。
その時、「店頭に『英語メニューあります』って書いとけばいいですよ」と言ったが、本当に書いたのか。
もうすぐでホテル周辺から笹塚駅までの『笹塚飲食店マップ』が完成する。
日本語版と英語版があり、英語版には英語メニューがある店を紹介している。
観光客が暖簾をくぐっていく後ろ姿を見送りながら、小さな満足感があった。
――ここに泊まる人たちが、ただ寝泊まりするだけじゃなく、この街の空気や味を楽しめるように。
そんな仕組みを作りたいと思ったのは、きっと今みたいな瞬間に出会ったからだ。
澪や澪のお母さんと一緒にコンビニを後にしながら、不思議と足取りが軽くなった。
* * *
夜になり、家族そろってメインレストランで食事を楽しんだ。
デザートまで味わい尽くしたあと、それぞれの家族はスイートルームへ戻っていった。
俺もカードキーをかざして部屋に入る。ふかふかのカーペットに、広すぎるベッド。窓からは夜の街が一望できた。
「……近所にアパートがあるのに」
思わず呟く。
ホテルの部屋に泊まるなんて、ちょっとした贅沢の極みだ。
スリッパを脱いでベッドに寝転ぶ。シーツの匂いと、羽毛布団の重みが心地いい。
「ぜいたくすぎるな……」
天井を見上げながら独白する。今日一日だけで、仕事も家族も街も、すべてがひとつにつながった気がする。
このホテルは、俺にとってもうただの“経営の場”じゃない。――居場所なんだ。
そう思ったとき、扉をノックする音がした。
コン、コン。
静かなノックの音が、広いスイートルームに響いた。
俺はベッドから身を起こし、ドアを開ける。そこに立っていたのは澪だった。
薄いピンクのパジャマに、まだ少ししっとりとした髪。頬はほんのり赤い。
「……ちょっと、いい?」
小さな声。けれど、その表情には期待と緊張が混じっていた。
「もちろん」
中に招き入れると、澪はソファの端に腰を下ろした。俺も隣に座る。
大きな窓からは、新宿の夜景が広がっている。ビルの明かりが星のように瞬き、車のライトが川の流れみたいに道を走っていく。
澪はその光をしばらく眺めてから、ぽつりと呟いた。
「家族が同じホテルに泊まってるなんて、なんか不思議だね」
「うん。普段なら絶対一緒に出かけたりしないのに、今日は同じ建物で過ごしてる」
澪が笑う。
「しかもスイートだもんね。父さんも母さんも、すごく喜んでた」
「うちの親もだよ。あんなに感心してる顔、久しぶりに見た」
二人で顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれる。
――家族同士が同じ時間を共有している。
それだけで、ホテルがちょっと特別な場所に思えた。
「なんか……嬉しいね」
澪がぽつりと言った。
「うん」
夜景の光が窓に映り込み、二人の表情をやわらかく照らしていた。
澪は照れくさそうに肩をすくめ、視線を窓の外に逃がした。
俺もつられて夜景を見た。ガラスに映る二人の姿が、妙に大人びて見える。
しばらく沈黙が流れる。不思議と落ち着く時間だった。
都会のざわめきが遠くに溶けていくようで、ソファに並んでいるだけで心地いい。
澪が口を開いた。
「ねえ、恭一。もしこのホテルがもっと有名になって、たくさんのお客さんが来て……それでも疲れちゃったら、どうする?」
「疲れたら?」
「うん。全部抱え込みすぎて、しんどくなったら」
胸の奥に刺さる質問だった。確かに、俺は何でも自分でやろうとする癖がある。
けれど、今は迷わず答えられた。
「そのときは……澪に相談する」
「え?」
「ひとりじゃ無理でも、澪と一緒なら、きっと何とかなる」
澪の目が驚きで丸くなり、それから少し潤んだように見えた。
「……バカ。でも、そう言ってくれるのは嬉しい」
また少しの沈黙。だけど、さっきよりもずっと近い沈黙だった。
互いの呼吸の音さえ感じられる距離で、澪が小さく笑った。
「ねえ、私……このホテル、大好き」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
数字でも利益でもなく、この言葉こそが一番の報酬なんだ。
そこから先は、時間を忘れて語り合った。
ホテルの未来のこと。学校での何気ない出来事。これからの夢。
話しても話しても尽きなくて、気づけばもう空が明るくなり始めていた。
窓の外に一筋の朝日が差し込む。
澪は小さく伸びをして、微笑んだ。
「そろそろ寝ないと、9時集合に間に合わないかも」
「そうだな」
澪は目を丸くして俺を見つめ、それから少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……じゃあ、少しだけ」
遠慮がちにそう言って、隣に腰を下ろす。
俺も布団をめくり、二人で並んで横になる。
真っ白なシーツに包まれながら、そっと手を伸ばすと、澪の指が触れた。
握り返してくる手は小さくて、でも温かい。
何度も手をつないできたけど、この夜の静けさの中では、まるで初めてみたいに特別に思えた。
握り返してくる指は少し震えていて、それでもあたたかかった。
そのぬくもりだけで、不思議と安心する。
手をつないだまま、2人ともすぐに眠りについた。
その眠りの向こうに、新しい未来が待っていることを知らないまま。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
第3部をもちまして、いったん更新を停止いたします。
理由は単純に、ストックが尽きてしまったためです。
現在、新しいストックを準備しております。
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