143話 最高のホテル
翌朝。
まだ外が薄暗い時間から、ホテルのスタッフは慌ただしく動き始めていた。
ロビーの床は磨き直され、観葉植物の葉まで一枚ずつ布で拭かれている。
ホテルの中は、最終日の準備でピリッとした空気に包まれていた。
今日は外務大臣が首相官邸を表敬訪問する日だ。
出発を無事に送り出すまで、誰一人として気を抜けない。
SPと警察官が所定の位置に立ち、非常階段や搬入口の鍵を再点検する。
無線でのやり取りが短く交わされ、赤いランプが消えるたびに「クリア」という言葉が静かに飛んだ。
俺も朝の確認を終えてロビーに立ち、祈るような気持ちで時計を見つめる。
針が九時を指す少し前から、全員の鼓動が一斉に早まっていくのが肌で伝わった。
(ここまで来たら……最後まで無事に)
心の中で呟き、深呼吸を一つした。
午前9時過ぎ。
エレベーターの表示灯が点滅し、14階から外務大臣一行がゆっくりと降りてきた。
黒いスーツに身を包んだSPに囲まれ、正面に現れた大臣の姿は昨日よりもさらに引き締まって見えた。
長距離移動と連日の公務で疲れているはずなのに、その足取りは堂々としていた。
「外務大臣ご出発です」
警備主任の低い声がロビー全体に響く。
その合図で、整列したスタッフ全員が一斉に深々と頭を下げた。
空気が一瞬、止まったように感じられる。
「快適に過ごせました」
大臣が短く言葉を残した。
昨日までの疲労を感じさせない声で、確かな満足感がにじんでいた。
たった一言。けれど、その一言がスタッフ全員の胸にずしりと響く。
下げていた背筋が少し緩み、誰もが顔を上げたときに小さな笑みを浮かべていた。
やがて、エントランス前に並んだ公用車のドアが重く閉じる音が響いた。
車列がゆっくりと動き出し、ホテルの敷地を抜け、大通りの向こうへと消えていく。
数秒後、スタッフたちが一斉に大きく息を吐いた。
「……終わった」
誰かが小さくつぶやいたその言葉が、全員の心を代弁していた。
その場にいた誰もが分かっていた。
この数日間、ホテルを覆っていた張り詰めた空気が、ようやく解けたのだと。
「オーナー、本当に……よくやりきりましたね」
久世支配人が俺の方へ振り返り、深々と頭を下げた。
その動作に合わせるように、周囲のスタッフたちも一斉に笑顔を見せる。
「これで胸を張れます」
「最高の現場でした」
小さな声が次々に飛び交い、ロビーに柔らかなざわめきが広がっていく。
俺はその輪の中心で立ち尽くしていた。
頭の中は真っ白なのに、心臓の音はまだドクドクしている。
(やっと……やっと終わったんだ)
ここ数日、いや大臣の宿泊が決定してからの緊張の日々から解放された。
スタッフたちも気が緩んだように安堵の表情を浮かべている。
その光景を見ながら、 満足げにロビーを後にした。
正午。
ロビー奥にあるスタッフルームでは、テレビがつけっぱなしになっていた。
飲み物と紙コップが机に置かれたまま、誰も手をつけようとしない。
全員が食い入るように画面を見つめていたからだ。
画面には首相官邸の映像が流れている。
赤いカーペットの上で、外務大臣が日本の首相と固く握手を交わす。
記者団のフラッシュが一斉に焚かれ、白い光が嵐のように彼らを包み込む。
その瞬間だけでも、この外交イベントがどれほど大きな意味を持つのかが伝わってくる。
共同記者会見が始まった。
日英同時通訳が流れる中、両者は互いに協力関係を強調する発言を繰り返す。
スタッフたちは誰も言葉を発さず、ただ静かに頷いたりしていた。
そのときだった。
外務大臣がふと笑みを浮かべ、マイクに向かって言葉を付け加える。
「今回滞在した東京のホテルでは、素晴らしい技術と、心温まる歓迎を受けました。これは日本のおもてなしの……」
一瞬、通訳の声がかぶさり、意味を理解するのにワンテンポ遅れた。
だがすぐに、部屋の空気が変わった。
「えっ……」
誰かが小さく声を上げる。
画面の向こうでは記者団がざわめき、ざわついた声がマイクに拾われて流れた。
「どこのホテルなのか?」
「具体的にどこを指しているのか?」
「大臣の宿泊したホテルを調べろ!!」
そんな小声が、日本中にそのまま流れてしまう。
「ま、まさか……これ、うちのことですよね!?」
1人のスタッフの声で、張りつめていた空気が一気に破れた。
「だよな!? 間違いないよな!?」
「他に考えられないだろ!」
「大臣が泊まったホテルなんて、うちしか……!」
一気に空気が弾け、スタッフたちが歓声を上げる。
その視線に押されて、俺もつい笑ってしまった。
「……マジか。全国ニュース出たぞ、うち」
思わず口からこぼれた小さな声は、誰にも届かなかったようだ。
スタッフルームはすでに歓声と拍手で揺れていた。
「やったぞ!」
「全国ニュースだ!」
普段は冷静な副支配人まで、珍しく笑みを見せた。
「これで当ホテルの名が広まるでしょう」
テレビ画面には、まだ会見の様子が映っていた。
首相が隣で静かにうなずき、大臣が自信に満ちた表情で言葉を重ねている。
スタッフたちの歓声が部屋を満たし、誰かが「今日は乾杯だ!」と声を上げる。
その輪の中で、俺は深く息を吐いた。
まだ信じられない。けれど確かに、歴史的な一歩を踏み出したのだと実感していた。
その日の午後、外務大臣の公式訪問の全日程が無事に終了した。
SPや警察官も順次撤収していき、ロビーもようやく静けさを取り戻した。
昨日まで張りつめていたあの重苦しい空気は、もうどこにもない。
スタッフルームに戻ると、誰からともなく声が漏れる。
「いやー……ようやく終わったな」
「ほんとだよ。胃が痛くなるかと思った」
「大きなトラブルが出なくて、本当に良かった」
「こんなの、人生で一度経験できるかどうかだよな」
最初はため息混じりだったのに、気づけば笑い声が増えていた。
紙コップに注がれたお茶を軽く掲げ合う者もいた。
ただそれだけのことなのに、張りつめていた心が少しずつほどけていく。
久世支配人がみんなを見渡し、静かに、けれどはっきりと口を開いた。
「大臣へのおもてなし、みなさまお疲れさまでした。大臣も満足なさっていたようで幸いです」
その言葉に、自然と全員がうなずいた。
普段は口数の少ない調理場の主任まで「ですね」と小さく笑ったのを見て、場の空気がさらに和らいだ。
するとすぐに誰かが言う。
「オーナーがいてくれたからこそ、みんな踏ん張れたんですよ」
「そうそう、昨日のミケのデモンストレーションだって助かったんですから」
俺は輪の中で苦笑しながら言った。
「いや、俺は何もしてないですよ」
高校生としての自分と、ホテルオーナーとしての自分。
その二つが同時にここに存在していて、確かに「世界が広くなった」と思えた。
外務大臣の到着、滞在、そして出発。
そのすべてを見届けた今になって、初めて全身の緊張が解けていく。
(でも……このホテルはちゃんとやれた。スタッフも、システムも、ロボットも)
ホテルからの帰り道、俺はタクシーの後部座席に体を沈めた。
車がゆっくりと動き出すと、窓の外にホテルの外観が見えた。
今朝までの緊張が嘘のように、ビルの壁は夕陽を浴びて静かに輝いている。
(……俺が高校生であることなんて関係ない。経営者として、一歩進めたんだ)
そう思うと嬉しくなり、自然と口元に笑みが浮かんだ。
窓の外でホテルの姿が小さくなっていく。けれどその存在は、これからの未来を確かに照らしてくれている気がした。
タクシーは大通りに出て、街の灯りの中へと吸い込まれていく。
窓の外に広がる景色を見つめつつ、俺は心の中で次の挑戦を描いていた。