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141話  来日(2日目)

午前5時。目覚まし時計の大きな音で目を覚ました。

眠った気がしない。


昨夜は何度も寝返りを打ち、天井を見つめてはため息をつくばかりだった。

結局、うとうとしただけで夜が明けた。


制服に袖を通し、家を出る。


 ホテルに着いたのは六時前。

 ロビーはまだ静かだが、要所には警備員が立ち、緊張感が漂っていた。



「オーナー、おはようございます」


警備主任が出迎えてくれた。


「今のところ異常なしです。大臣は予定通り、9時に外務省へ出発されるそうです」


「……そうですか」


胸を撫で下ろす。


(よし、初日はクリアか……)


小さく息を吐き、すぐに踵を返した。

 ここで立ち止まっている時間はない。俺にはもうひとつの顔――高校生としての一日が待っている。


朝の通勤時間帯、笹塚から八王子までタクシーで一時間半。

 車窓から差し込む朝日が、寝不足の目に容赦なく突き刺さる。


 頭が重く、まぶたが勝手に下りてきそうになる。


「お客さん、なんか寝不足の受験生みたいな顔してますねぇ」


 運転手がバックミラー越しに笑った。


「あ、はは……」

曖昧に笑い返しながら、内心で苦笑する。


(受験生じゃなくて、ホテルのオーナーやってるんです……なんて言えないよな)


窓の外に流れる住宅街を眺めながら、そのまま寝てしまっていた。

バレないように学校から少し離れたところでタクシーを停める。 


ようやく学校に着いた頃には、体力も集中力もほとんど残っていなかった。

授業が始まっても、ノートを開いたまま文字が頭に入ってこない。


「葛城、集中しろ」


「す、すみません……」


気づけば机に突っ伏して居眠りしていて、先生の声で慌てて顔を上げる。

周囲の笑い声が耳に痛い。


 ホテルでの緊張感と、高校での平和な昼寝。

2つが同時に来て、少し感情がバグってしまう。



昼休み。

購買帰りの俺の前に、澪が現れた。


「昨日は笹塚泊まり?」


「うん。”彼”が来てるから」


「……ほんと、大丈夫?」


呆れたように言いながら、でもその瞳は心配そうだった。


「ああ、眠いだけだから」


「無理して倒れないでね」


 その一言に、肩の力が少し抜けた。


放課後。チャイムが鳴ると同時に教科書をカバンへ押し込み、俺はすぐさま駅へ向かった。

笹塚までの電車移動は、眠気と疲労で意識が途切れそうになる。だが、今夜は外務大臣が戻ってくる。




 ホテルに着いたのは夕方6時過ぎ。


大臣がホテルに帰るまで時間があるので、総務部の自分の机に座る。

特にやることがないので、大臣の今までの動静などをチェックしたり、ホテルの資料を読み込む。



 * * *



夜9時半。

 ロビーには緊張感が張り詰めていた。


 支配人の久世さんを先頭に、スタッフやコンシェルジュが一列に並び、制服の襟を正して背筋を伸ばしている。

警察官と警備スタッフが配置され、全員の視線が入り口へと向けられていた。

ガラス扉の向こうに、公用車のヘッドライトが差し込む。


 やがて自動ドアが開き、SPに囲まれた外務大臣が姿を現した。

朝から外務省での会議や経団連主催の昼食会、そして晩餐会までこなした後での到着だ。


表情にはさすがに疲労の色が浮かんでいたが、それでも穏やかな笑みを浮かべ、久世支配人の挨拶に軽くうなずき返した。


「おかえりなさいませ」


「Thank you.」


 そのまま、SP に囲まれてエレベーターへ向かう――はずだった。


 その瞬間、ロビーの片隅で気配が動いた。

警備員たちの視線が即座に一方向へいく。


黒いスーツ姿の外国人が数人、エレベーターから降りてきて玄関に向かっている。

おとといから滞在しているロシア人団体だった。


一歩、また一歩と玄関へ直進してくる。


彼らは周囲の視線を気にする様子もなく、まっすぐ玄関近くまで進み――そして、先頭の男が口を開きかけた。


「――」


言葉を発する前に、日本側の警備官が素早く前に出た。


その数人の移動で、ロビーにいる全員が異様さに気づく。


「お下がりください!」


声がロビー全体に響き、空気が一気にざわつく。


 俺も思わず足を止め、息をのんだ。



 大臣のSP達も大臣の前に立ちはだかる。

その場の緊張は一瞬で臨戦態勢に近い空気へと変わった。

 ――もし武器を持っていたら?


 しかし、ロシア人団体のリーダー格らしき男が慌てて両手を上げ、英語で叫んだ。


「We only wish to extend our greetings!」


両掌を高く掲げるその仕草は、敵意がないことを必死に示していた。

通訳が駆け寄り、早口で翻訳を始める。


「彼らは敵ではありません。関係者です!!」


同時に大臣の秘書も前に出て大声で言う。


しかし、SPたちは依然として大臣を囲んだまま動かない。


「We were invited… just wanted to say thanks!」

(私たちは昼食会に招かれたので、ただ感謝を伝えたかっただけです)


通訳の声が響き、ようやく場の空気が緩んだ。


その後、ロシア人たちの説明が通訳によって整理されて伝えられた。


『エスティニアとの経済協議に関わる会社の関係者であり、大臣に直接昼食会の招待のお礼と挨拶をしたかった』


彼らは経団連主催の昼食会に参加していたが、公式ルートではなく企業招待の形だった。

警備対象外だったため、ホテルに事前通達もなく、ただの宿泊客としてチェックインしていたのだ。


肩の力が抜け、胸の奥で苦笑が漏れそうになる。


その後、ホテル側と大臣側のやり取りで誤解は丁寧に解消され、場は落ち着きを取り戻した。

ロシア人団体は「ご迷惑をおかけしました」と謝罪をして、静かにその場を去っていった。


大臣はといえば、眉ひとつ動かさず、護衛たちに向かって「ありがとう」と短く礼を述べる。騒ぎを特に気にする様子もなく、むしろ平然とした態度が周囲を安心させた。


(ああ……なんともなくて良かった)


俺は心の中でそう繰り返しながら、胸をなで下ろした。


やがて、大臣がこちらを振り返る。


「ホテルの護衛体制はすばらしいですね」


久世支配人が一歩前に出て、深く一礼する。


「ありがとうございます」


大臣は周囲を見回し、ふと穏やかな表情を浮かべた。


「また、このホテルにはロボットが料理を運ぶレストランもあるそうですね。ぜひ見てみたい」


その言葉に、支配人の顔にわずかな驚きが広がった。


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何事もなかったけど警備担当の出世もなくなりそうで可哀想
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