140話 来日(1日目)
朝七時半。
俺は家を出て学校に向かう――のではなく、タクシーの後部座席に座っていた。
「お客さん、どちらまで?」
「笹塚までお願いします」
「はいよ」
運転手の軽い声に、妙に安心してしまう。普段なら笹塚へ行くには電車を使うが、今日は違う。駅でクラスメイトに出くわしたら最悪だ。
『おい、葛城、学校サボってんのに駅にいたぞ!』
……なんて噂が流れたら即アウト。
親には「熱があるから休む」ことになっているのに、元気に電車に乗るところを発見されたら不自然すぎる。
サボり確定、赤点より痛いダメージだ。
窓の外を流れる住宅街を見ながら、俺はため息をつく。
(まあ、中間テストまでまだ時間あるし。一日くらい休んでもバレないだろ。澪にはメールしといたし)
別にホテルに行ったところで、俺にやるべき仕事があるわけじゃない。支配人やスタッフが全部準備してくれる。
それでも、どうしても気になってしまうのだ。
裏手からホテルに入る。
総務部のオフィスに入ると、いつも以上に張りつめた空気が漂っている。
スタッフたちが机いっぱいに書類を広げ、ペンを走らせながらスケジュールを確認していた。
「外務大臣は既に成田に到着されたそうです。これから大使館での打ち合わせを済ませ、夕方には麻布台の飯倉公館にて外務省主催の歓迎夕食会。日本の外務大臣、関係閣僚、それに在日バルト三国の大使館関係者が同席する予定です」
副支配人の声が響く。
紙をめくる音すらやけに大きく聞こえて、俺まで息苦しくなる。
「ホテルに到着するのは二十一時を過ぎるでしょう。時差は六時間。長距離フライトと公式行事を終えた後ですから、かなり疲労されているはずです。到着後は最小限の動線で、速やかにスイートへご案内します」
予定表の文字を追っているだけで、1つ1つが俺には想像つかないほどの重大行事だ。
ロビーでは、すでに準備が整えられていた。
豪華な花の左右には日本とエスティニアの国旗が掲げられている。
さらに小さな国旗も随所に置かれ、空間全体が国際会議の会場のような雰囲気をまとっていた。
入口近くにはウェルカムボードが設置され、エスティニア語と英語で大臣を歓迎するメッセージが書かれている。
フロントスタッフは制服の襟を何度も直し、硬い表情で立ち尽くしていた。
要所には警察官やSPが配置されている。
エレベーターの前、非常階段、搬入口。誰もが背筋を伸ばし、視線を鋭くしている。
会議で決めた通り、十四階のスイートと、その真下の十三階全フロアは完全に空室。
俺はといえば、総務部の端に置かれたモニターの前でその様子を眺めていた。
表向きはオーナーだけど、実際はただの高校生だ。
(俺、ほんとにここで役に立ってるのか……?)
複雑な思いを抱えながら、こっそりノートPCを開いた。
ChatGPTに入力する。
「過去にVIPを迎えたホテルでの失敗例」
数秒後、事例がいくつか表示された。
「到着が遅延し、ロビーに居合わせた一般客が写真を撮って騒ぎになった」
「エレベーターが封鎖されず、他の宿泊客と鉢合わせしてトラブル」
「予定外のマスコミが押しかけ、混乱」
読むたびに、胃の奥がきゅっと縮む。
準備をしても、絶対に“予期せぬ何か”は起きる。
(……大丈夫か? 本当に)
モニターに映るロビーや制服姿のスタッフは、完璧に見える。
それでも、不安は消えなかった。
朝から緊張しつつ待っていると、午後9時を少し回ったころ、ついにその瞬間が訪れた。
ロビー前にパトランプを載せた警察車両が停まり、続いて黒塗りの公用車が滑り込む。
自動ドアが開いた瞬間、ロビー全体の空気が一変した。
フロントスタッフは背筋を伸ばし、支配人の久世さんが最前列に立つ。
エントランス前では警察とSPが素早く動き、視線を四方に走らせていた。
車のドアが開き、長身の男性が姿を現す。
東欧の外務大臣――今日の主役だ。
十数時間のフライトと公式行事を終え、疲労の色を隠せない。それでも、周囲の関係者に笑顔を見せながら手を振る姿には貫禄があった。
「It is our great pleasure to welcome you 」(ようこそお越しくださいました)
久世支配人の声は震えもなく、いつも以上に低く丁寧だった。
その光景を、俺は総務部のモニター越しに食い入るように見ていた。
映像なのに、緊張が画面から滲み出してくる。
(……これが“国家レベル”ってやつか)
外務大臣はSP四名に囲まれ、ためらいなくロビーを通過する。
予定通り、大臣は関係者専用のエレベーターに乗る。
エレベーターは静かに上昇し、十四階で止まった。
SPが先に降り、廊下を確認。続いて大臣がスイートルームへ案内される。
ドアが閉まるまでの一連の動作は無駄がなく、流れるようだった。
「……以上で、初日の到着は終了です」
無線から聞こえる報告に、会議室のスタッフたちは一斉に肩の力を抜いた。
滞りなく済んだ。
(これで終わり……だといいな)
非常階段は大丈夫か。
エレベーター制御に隙はないか。
そして――4階の彼らがもし本気で動いたら?
そんな疑念が頭の中をぐるぐると回る。
「オーナー、今日はここまでで大丈夫です」
総務部の控室で、警備主任に声をかけられた。
「……はい」
素直にうなずくしかなかった。
それでも、胸のざわめきは収まらなかった。
夜十時過ぎ。
ホテルを後にして、近くのアパートに戻る。
以前から借りていたが、実際に泊まるのは今日が初めてだった。
(エアコンがないから、今度設置しておくか)
昼間の華やかなホテルロビーとの落差が、逆に現実感を突きつけてくる。
布団に潜り込んでも、眠気はやってこない。
(初めて寝るところだし、慣れてないからかも)
代わりに不安と緊張が押し寄せてくる。
無事に大臣を迎えられた安心感。
外交の最前線なんて、本来なら俺には縁のない世界だ。
それなのに、今は真っただ中にいる。
布団の中で体を丸めても、胃の痛みは引かなかった。
……朝のタクシー運転手の軽い声が、今は妙に懐かしく思える
外の街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、眠れぬまま時間だけが過ぎていった。